​毎週の礼拝説教の要旨を載せています。

わたしを愛するか

2020年5月3日復活節第4主日

(弟子への委託)

ヨハネによる福音書第21章15-19節

牧師 木谷 誠

 約30年ほど前、友人が研修から帰って来て、こんな話を聞かせてくれました。当時の日本基督教団総会議長の辻宣道牧師が、「伝道者はどれだけイエスを愛するかで決まる」と語られたというのです。どういうことでしょうか?

まず「愛する」とは?聖書の中で「愛」と訳されている言葉を、明治期の宣教師たちは「お大切」と訳したそうです。「愛」よりもむしろ「お大切」という言葉の方が聖書の意味をよく伝えているように思えます。「イエスを愛する」を「イエスを大切にする」と、「神を愛する」を「神を大切にする」と言い換えてみたら、私たちの信仰生活が、よりわかりやすくなります。生活の中で、何よりも神を、イエスを大切にする。大切な方の喜ぶことを求め、考える。やってみる。逆に大切な方の悲しまれることはしない。常に心がける中で、神様に従い、神様から委ねられた務めを果たすことができると辻宣道先生は教えてくださったのでしょう。

不思議なことに、神を、イエスを大切にしようと努めていると、神とイエスから自分を愛され、大切にされていることに気づきます。不思議です。でも事実です。私たちが神様を大切にして(愛して)いる以上に、神は、イエスは、私たちを大切にしてくださっています。この実感は、自分が、神をイエスを大切にして(愛して)みようとすると経験できます。そしてその神様の愛(お大切)に慰められ、励まされ、導かれている、その実感が、神と隣人を愛(大切に)する、仕える歩みのエネルギー、愛のわざに励む勇気と力と知恵を与えてくれます。

昔、尊敬する宣教師の先生がこんなことを言われました。「イエスは、ペトロがペトロ自身を知るよりもペトロのことをよく知っています。」と。

復活のイエスは、これから使徒として歩むペトロが、その務めを果たせるようにと、しつこいほどに「私を愛するか」と問うたのです。本日の聖書で、「私を愛するか」と何度もペトロに問うたイエスは、ペトロがイエスを愛する以上に、もっともっとペトロを愛し、大切にしておられるのです。

これは伝道者だけではなく、全ての人に与えられる恵みです。神を愛する(大切にする)中で神から愛される(大切にされる)世界があります。不十分でもいいからやってみましょう。まず、始めましょう。神を、イエスを、愛して(大切にして)みましょう。すぐにはわからないかもしれません。でも人生の歩みの中で、実は自分が神を、イエスを愛する(大切にする)よりも、ずっとずっと神は、イエスは、自分を愛し、大切にしてくださっていたことに気づかされる日が必ず来ます。

祈り 

神様、ありがとうございます。あなたを愛する、あなたを大切にする歩み、隣人を愛する、大切にする歩みへと踏み出させてください。そこであなたによって豊かに愛されている喜びの世界へと私たちを導いてください。

主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

主の愛に包まれた食事

2020年4月26日復活節第3主日(復活顕現2)

ヨハネによる福音書第21章1-14節

牧師 木谷 誠

 弟子たちは、イエス・キリストの復活と出会った後、すぐに力強く歩み始めたわけではありません。彼らは、自分の弱さと罪、イエス・キリストを裏切って逃げてしまった絶望感、挫折感に打ちのめされていました。これからどう生きていくのか?その道も見えません。それでも生きていかなければならない。どうするか。仕方なく昔の仕事に戻ったのでした。そういう時に限って、魚一匹取れない。ただでさえ、心が暗い時に、「泣きっ面にハチ」でした。彼らは、人生の光を見出すことができず、気力も失せてしまったことでしょう。

 そんな弟子たちのところに復活のイエスが、来てくださいました。ところが、不思議なことに、弟子たちはイエスがわかりません。なぜでしょうか?その理由を挙げます。

第一に、復活のイエスは、十字架にかかる前のイエスと全く同じではない。イエスの復活は、死ぬ前の状態に戻る素性ではなく、死を超えた新しい命の姿だからです。

第二に、人間は、心を閉ざしていたら、「見ても信じない」心の弱さと頑なさを持っているということです。聖書の中で、数々の奇跡を見ながら、信じない人々がいました。弟子たちも、イエスに従いきれなかった絶望から心を閉ざしてしまった。そんな中では見ても信じることができないのです。

第三に、復活は「啓示」です。啓示とは、自分から理解することではなく、向こうから示されることです。自分の努力とは関係なく、向こう側から開いてくれる。示してくれることです。復活のイエスの出来事は、神の側から示してくださった出来事です。ですから人間の側からいくら求めても、それを理解することはできないのです。この物語でも、復活のイエス・キリストが心を開いてくださることによって、はじめてわかるのです。

 復活のイエスの船の右側に網を打つようとの言葉に従って網を打ってみると、たくさんの魚がかかりました。イエスは、弟子たちの真っ暗闇の人生に光をもたらされました。彼らを導き、豊かな実りをもたらしてくださる。イエスの言葉と導きをいただいて、網が破れるほどの魚が取れたこと。それはたとえ真っ暗闇な人生にあっても、イエスに導いていただくならば、豊かな人生を歩むことができるということの象徴です。そしてイエスの愛しておられた弟子が復活のイエスに気づきました。これもこの弟子が自分で気づいたというよりは、イエスがこの弟子の心を開かれたということでしょう。それを聞いて、シモン・ペトロは、湖に飛び込んでしまいました。復活のイエスに会いたいという強い気持ちで飛び込んだのでしょう。そうして、弟子たちは復活のイエスと出会うことができました。イエスは弟子たちを喜びの朝の食卓に招きます。復活のイエスは生きておられる。弟子たちの背き、裏切りの罪を赦し、愛してくださる。共にいて導いてくださる。豊かに養ってくださる。この喜びの交わりの中で、弟子たちは復活のイエスの恵み、経験することができました。もう誰もイエスを確かめる必要はありませんでした。

 今、私たちは新型コロナウイルスによって、危機にさらされています。人間の弱さを思い知らされています。多くの国々が今まで築き上げてきた繁栄を失うかも知れません。人間の力で築き上げてきたものがいかに脆いのか、自分たちの弱さを思い知らされています。そして、希望の光を見出すことが難しい状況です。それは今日の物語の弟子たちとつながるところがあります。そしてそのような私を復活のイエスは訪ねてくださいます。私たちを、導き、養ってくださいます。そして実り豊かな人生をもたらしてくださいます。厳密には、それは今日、復活のイエスに代わって天から降った聖霊によって実現します。聖霊が天から降り、私たちの心に神の愛を注いでくださる。聖霊によって私たちは、この厳しい現実の中あって、導かれ、励まされ、神の愛を実感しながら歩み、復活のイエスが共にいてくださることを実感できます。そのような聖書本来の意味において「知る」ことができます。聖書において、知るとは「経験する」ことなのです。大切なことは、この聖霊の働きを受け入れることです。そのための身支度は、御言葉に聴くことと祈りです。その営みの中で、聖霊を通して、イエスが導いてくださる世界へ私たちは招かれているのです。

(祈り)神様、私たちと共にいて導いてください、聖霊を注いでください。復活のイエスは、今も生きておられ、私たちと共におられることを「知る」ことができますように。

 主イエス・キリストによって祈ります。

アーメン

あなたがたに平和があるように

2020年4月19日復活節第2主日(復活顕現2)

ヨハネによる福音書第20章19-23節

牧師 木谷 誠

 イエスが十字架にかけられて三日目に死人の中からよみがえられた。それは死ぬ前の状態に戻った「蘇生」ではありません。死を超えた新しい命、神としての新しい命に生きておられるということです。さらにイエスの復活は、私たちにとっても大きな喜びです。イエスが死を打ち破られただけならば、それは単なる個人的な「すごいこと」に止まります。しかし、イエスの復活は、私たちと関わりのある出来事となりました。そのことをお伝えしたいと思います。

 さて、私たちの人生において、最も辛く悲しいことの一つは、裏切られること、恩を仇で返されることではないでしょうか。イエスの十字架は、まさしく裏切られた出来事です。深く愛したにもかかわらず、その恩を仇で返されたという面があります。イエスの十字架の出来事は、罪の贖いと言うことができます。私たちに代わって十字架の死によって罪を償ってくださった。イエスの十字架の物語の中で、その罪は具体的には弟子たちの裏切りです。彼らはイエスを見捨てて逃げたのです。その時、彼らは、イエスの愛を裏切ってしまったということができます。イエスにとってそれは本当に辛く悲しい出来事でした。十字架の死は、肉体的に非常に大きな苦痛を伴なったことでしょう。それに加えて、愛するものに裏切られ、見捨てられたイエスの心の苦しみは非常に大きなものであったことでしょう。逆に言えば、弟子たちは、イエスを裏切り、約束を破ってしまったという大きな負い目、挫折感があったと思います。彼らは、一生、約束を破った、愛する人を裏切ったという負い目を持ちながら人生を歩んでいかなければなりませんでした。

 しかし、そんな弟子たちに復活のイエスが出会ってくださいました。「あなた方に平和があるように」。ご自身を裏切った弟子たちに対して、イエスは平和の挨拶を送ります。「安心しなさい。私はあなたたちを今も愛している。あなたたちは私を裏切った。しかし、私の愛は変わらない。」そのような祝福と平和の挨拶を、イエスは与えてくださいました。そのような意味において、復活の物語は、死に打ち勝った肉体の復活の物語である以上に、愛の交わりの復活の物語ということができるのです。弟子たちはイエスを裏切りました。そしてイエスは死なれました。愛の交わりは一方的に絶たれてしまいました。取り返しのつかないこととなってしまいました。しかし、イエスは復活され、弟子たちと会ってくださいました。失われた愛の交わりを、イエスは、復活によって、取り戻してくださいました。これにより、復活は愛の復活の物語となったのです。復活は、イエスの個人的な「すごいこと」を超えて、弟子たちとの関わりにおける交わりの復活の物語となりました。その上で、イエスは、そこから歩み出す新しい力を与えてくださいます。「聖霊を受けなさい。父が私を遣わされたように、私もあなたがたを遣わす。」遣わされて伝えることは罪のゆるしであります。私たちの人生において、何が一番難しいか?その一つは「ゆるすこと」であると思います。一生ゆるさないまま、ゆるされないまま、人生を終えていく人もいるようです。この「ゆるし」という難しいことが弟子たちに委ねられます。でもイエスはできないことを委ねたりはなさいません。「聖霊を受けよ」とイエスは言われます。ゆるしを伝える時、ゆるす時、それに必要な力もイエスは与えてくれます。それをできるようにするのが聖霊です。そのようにして弟子たちは、イエスを裏切ってしまった人生の負い目から解放され、イエスとの愛の交わりを与えられて、再び歩み出していくのです。イエスの愛と恵は裏切った弟子たちの罪を遥かに超えています。

そしてイエスは、この愛の復活の物語に、私たちをも招いてくださいます。私たちは、イエスが十字架にかかった時、生まれていませんでした。しかし、イエスを裏切ってしまった罪の根っこは、私たちのうちにもあるのではないでしょうか。イエスは、約束を破る、裏切る私たちの罪をゆるし、愛の交わりを与えてくださいます。自分の罪、弱さを超えて、尚、イエスは、私たちを愛してくださいます。「あなた方に平和があるように」との言葉は、私たちにも響いているのであります。

(祈り)

天の父なる神様。

約束を破り、裏切ってしまうような罪深い私たちをも、イエスはゆるし、愛してくださいます。この愛に感謝し、聖霊をいただいて、私たちもゆるし合う者として歩んでいかせてください。

イエスの御名によって、アーメン。

死を超える命の物語

2020年4月12日復活節第1主日

マタイによる福音書第28章1-10節

牧師 木谷 誠

 本日、イースター、復活祭の礼拝を守ることができることを大変嬉しく思います。イースター、復活祭はキリスト教の中でも最も大切な祝いの祭りです。

今、新型コロナウイルス流により大きな不安の中にあります。でも、主は復活なさいました。私たちの主イエスは、姉に打ち勝たれた方なのです。故にどのようなことになろうとも、私たちが新型コロナウイルスに負けることはありません。

 イースターの物語を辿りましょう。十字架にかけられて死なれ、葬られて三日目、女たちは主イエスの墓を訪ねました。しかし、墓は空でした。これはどういうメッセージなのでしょうか?それはイエスは過去の人ではない、イエスは生きておられる、神としての新しい命、死を超える新しい命にイエスが生きておられるということであります。

 墓は大切なものですけれど、あくまでそこには過去しかありません。しかし、イエスは過去に閉じ込められてはいない。生きておられる。そのようなことがからの墓のメッセージであります。そしてイエス・キリストはガリラヤへ行かれ、そこでお会いすることができると天使は語ります。ガリラヤとは、イエス・キリストが生き生きと活躍された場所、神の御業に励まれた場所でありました。墓ではなく、ガリラヤでイエス・キリストと出会うことができます。イエス・キリストは生きておられ、ガリラヤという生きて働く場所で再び弟子たちと、そして私たちと会ってくださるのです。イエス・キリストは墓の中にはおられません。イエス・キリストは現実に働く生活の場、そこにイエス・キリストは来てくださる。そこで復活のイエス・キリストとであることができるのです。その「ガリラヤ」は職場であり、地域であり、家庭です。そこでイエス・キリストは私たちとともにいてくださるのです。

 今、私たちはギリギリの状態で礼拝を守っています。本当にこのような形で来週も守ることができるのか?全く予想ができません。わかりません。そのような中で、もちろん、兄弟が礼拝堂にともに集い、交わりつつ共に礼拝することも大切ですが、ガリラヤで種とお会いすることができます。この場所に集うことができなくても、それぞれの場所で私たちは復活の主イエスと出会っていくことができます。イエス・キリストと共に歩むことができます。私たちはこの復活のメッセージから大きな慰めを励ましをいただくことができるのです。日曜日、みんなで礼拝を守れなくなる時が来るなど、考えたこともありませんでした。それぞれに都合が悪くてくることができないということはあるでしょう。でも礼拝をこの場所で守ることが難しい。そのような事態が来ることは想像もしませんでした。しかし、このような状況位あっても聖書の言葉は、私たちに力を持っています。同じ場所に集うことができなうてもそれぞれが生きる生活の場所に復活のイエスはともにいてくださるのであります。私たちはそのことに希望を見出し、それぞれの場所で主イエスとともに歩んでいく、そのような日々をこの復活のメッセージを胸に歩んで参りたいと思います。

(祈り)

 主イエス・キリストの父なる神様、主イエスが復活し、私たちとともに歩んでくださいます。死を超えた命の物語はガリラヤ、すなわち私たちの生活の場を舞台としています。そこで死を超えた命の物語が始まっていくのです。どうか、私たち、この言葉に希望を見出し、それぞれの場で復活の主イエスと出会って、歩んでいくことができますように。

 主イエスの皆によってお祈りいたします。 

アーメン。

罪がゆるされるために

2020年4月5日受難節第6主日

創世記第22章11-13節

ヨハネによる福音書第18章33-40節

牧師 木谷 誠

本日は棕櫚の主日、受難週の始まりとなりました。主の十字架の苦難と死を覚え、来週の主の復活の祝いに備えたいと思います。

さて、人は何のために生まれて、何のために生きるのか?人生の大問題です。そのことを今日はイエス・キリストに当てはめて皆様にお伝えしたいと思います。

 イエス・キリストの受難の物語を辿りましょう。イエス・キリストは弟子たちに裏切られ、ユダヤ人たちの陰謀によって逮捕されました。ユダヤ人たちはイエス・キリストを殺そうとしました。しかし、当時のユダヤはローマ帝国の植民地で、人を死刑にする権限が与えられていませんでした。ですからユダヤ人たちは、ローマ総督ピラトのところにイエスを連れて行き、イエスを死刑にしてもらおうとしたのでした。

 ピラトはイエスを尋問しましたが、イエスとの会話は噛み合いません。イエスがまともに答えようとしていないように思えます。ピラトにはイエスのことが理解できませんでした。これはピラトとイエスの会話に限ったことではなく、ヨハネによる福音書全般に言えることです。人々はイエスのことがわからない。イエス・キリストの言葉に戸惑うのです。どうしてこういうことになるのか?ヨハネによる福音書第一章10節の言葉を示されました。言は世にあった。世は言によって成ったが、世は言を認めなかった。 言は、自分の民のところへ来たが、民は受け入れなかった。

言葉とはイエス・キリストのことです。世はイエス・キリストを受け入れません。それがこの福音書の初めに書かれてあるのです。だから人々はイエス・キリストを理解できないのです。

 でもそこで終わってはいません。イエス・キリストは「真理を証するために生まれ、そのために来た」と言われました。イエス・キリストは「真理を証しするために」来られました。では真理とは何か?それは分かりやすく言うと「本当のこと」です。では本当のこととは? 

これらのことが書かれたのは、あなたがたが、イエスは神の子メシアであると信じるためであり、また、信じてイエスの名により命を受けるためである。20章 31節

 イエス・キリストが神の子、メシアであることを信じて、イエス・キリストによって、命を得ることができる。神の異なる資格が与えられる。これが真理、本当のことであることを証する、証明するためにイエス・キリストは世に来られ、その実現のために十字架で命を捧げられるのです。創世記22章のアブラハム がイサクを捧げる物語、間一髪で命を救われたイサクの代わりにすぐ近くにいた雄羊がいけにえとして捧げられます。イサクの代わりに犠牲となって、命を捧げ、イサクの命を救う雄羊、教会は古来から、この羊をイエス・キリストのモデルとして理解してきました。

 イエスをメシアと信じる者に神の子としての永遠の命、永遠の愛の交わりが与えられる。このことが本当であることを証明する、証しするためにイエス・キリストは来られました。その実現のためにイエス・キリストは十字架において、命を捧げてくださいました。そのことによって、私たちは、罪を償っていただき、そして神の子として、神との永遠の愛の交わり、永遠の命を与えられる恵みをいただいたのです。そして十字架はそのしるしでありました。そしてイエス・キリストに倣い、私たちも、イエスをメシアと信じ、イエスをメシアと信じたものは神の子とされるというこの真理を、私たちなりに精一杯証しして歩んで参りましょう。

一粒の麦

2020年3月29日受難節第5主日

ヨハネによる福音書第12章20-36節

牧師 木谷 誠

 今、祈祷会では、コリントの信徒への手紙第二を学んでいます。その中で、不条理なこと、非論理的なことでも、真理なのだなと教えられます。例えば、「弱さを誇る」とか「弱い時にこそわたしは強い」とかです。いずれの言葉も極めて非論理的です。聖書を読むと信仰の真理とは、そのように非論理的です。あまり理詰ではありません。でもそれが事実となる出来事となるのです。真理とは、私が繰り返し申し上げておりますが、いつでも、どこでも、だれにでも当てはまる力を持った事柄です。聖書の言葉の中には、非論理的な言葉もありますが、それがいつの時代にも、誰にでも、どこにいても通用する力を持ったことなのです。

 そして今日のヨハネによる福音書では「死から祈りが生まれ出る。」という言葉というか、命題が出てきます。これも非論理的です。普通の私たちの常識なら「死をもって命は終わる」のです。しかし、これも真理である。そのことを皆様にお伝えしたいと思います。

 イエス・キリストを礼拝するために来ていたギリシア人とは、ギリシア人でありながら、ユダヤ教に改宗した人たちのことです。その人たちが、イエス・キリストに会うことをフィリポに求めました。フィリポもギリシア語を話せたのでしょう。このギリシア人たちの来訪がきっかけとなって、イエスはいよいよご自分が十字架にかかる段階に来たことを悟ります。イエスの死、それは十字架における贖いの実現でした。十字架にかかることによって、イエスが人の罪を引き受ける。十字架にかかり、人の罪を償うことによって、罪のゆるしが実現します。そのことによって神と人との愛の交わりがもたらされます。その神と人との愛の交わりは死を超えて、永遠に続きます。この救いの核心が実現する時がいよいよ迫っています。イエスが十字架において命を捧げることによって、人が償いきれない罪を人に代わって、償ってくださいます。これによって罪の贖いがなされます。そのことによって、私たちの罪が赦されるのです。そしてイエス・キリストの復活によって永遠の愛の交わりが実現します。罪のゆるしと永遠の愛の交わり、これは決して死によってすら脅かされることなく、永遠に続きます。故に「永遠の命」と呼ばれるのです。「死から命が始まる」。極めて非論理的です。しかし、イエス・キリストの死と復活によって、これは事実となりました。出来事となりました。そして今日、私達が信じる時、「死から新しい命が始まる。」この非論理的な命題が私たちにとっても真理となるのです。一粒の麦が地に落ちて死ぬ。これは古代の人々は土に帰ること、土と一体化することを「死ぬ」と表現したのでしょう。最初の人、アダムも土から作られました。死ぬ事は土に帰ることでした。神がおいでになり、十字架において、ご自分の命を捧げられる。そのことによって、罪の赦しと永遠の愛の交わりが与えられる。それは死によってすら脅かされることのない永遠の命です。イエスの十字架の死によって、「死から新しい命が始まる」という極めて非論理的な命題が真理となるのです。受難節、イエス・キリストの十字架の意味を共に確かめ、これを自分の光として歩んでいきたいと思います。光を見失わず、光の子となるために、光のうちを歩みたいと思います。

誰を大切にするのか?

2019年3月22日受難節第3主日

ヨハネによる福音書第12章1-8節

牧師 木谷 誠

私が大好きなテレビ番組に「開運!なんでも鑑定団」があります。色々なものが出てきて言われがあって面白いです。。いつも楽しみに見ているのですが、その一方でちょっと不安になる時があります。それは何もかも物をお金に置き換えてみてしまう危険です。様々な骨董品、それぞれに目に見える形や金額にも興味がありますけれど、それぞれの目に見えるものの背後にある目に見えない物語、作った人の心はもっと大切だと思います。

 本日の聖書において、マリアがイエス・キリストに捧げた香油はとても高価なものでした。ナルドの香油、1リトラ(326グラム)、、300デナリオンとありますが、1デナリオンは1日の労働賃金でした。それが300ですから、ほとんど一年分の収入でした。そんな高価な物をイエスの足に注いで、自分の髪の毛で拭う。みんなびっくりしたことでしょう。多くの人々の最初の反応は「そんな高価なものを」でした。香油の金銭的価値に人々の心が向いています。でも、目に見える金銭的価値の奥にある目に見えないマリアの心はどうだったのか?ご一緒に考えてみたいと思います。

 マリアが捧げる前にイエスからいただいていたものがありました。聖書の物語から考えてみますと、イエスが兄ラザロを生き返られてくださったこと、とても大きな恵みであったと思います。マリアはイエス・キリストから大きな恵みをいただいて、新しく人生を生きることができるようになった。そのような恵みへの感謝、愛、献身のしるしがナルドの香油でした。目に見えるものの背後にイエス・キリストの恵みの物語があったのです。そのことを私たちは忘れてはいけません。

 私たちはどうでしょうか?わたしたちがイエス・キリストからいただいた恵を振り返ってみましょう。私たちもたくさんのお恵みをいただいているのではないでしょうか。最大の恵みは命でしょう。そして命をいただいて、歩む中でたくさんの恵みをいただいているその恵みの物語があるのです。それを思うことによって、私たちにも深い感謝と喜びが湧いてくる。マリアの場合、そのしるしがナルドの香油だったのです。そのことを見落としたくありません。

 さらにこの物語に奥行きというか深みを与えているのが、ユダの言葉です。このユダの言葉に込められた心は一言で言えば妬みです。妬みはとても恐ろしいもので、ある時、突然心の中に現れでてきて、自分の心の中に一体何が住んでいたのかと驚くことがあります。ユダはイエス・キリストから信頼されていました。そのような自負がユダにもあったことでしょう。そしてマリアを下に見ていたと思われます。そんなマリアが大胆な捧げ物をした時に、ユダは妬みの心を起こしました。自分ができないことをした。もともとお金をごまかしていたみたいですから、ますます心が乱れたことだと思います。「貧しい人に施せばよかったではないか」これは本当に貧しい人のことを思っているのではなく、自分の妬みを正当化するための方便です。ユダが大切なのは自分です。嘘でごまかし、欲望のままに奪い続ける自分です。その自分の罪がマリアの行動によって告発された。だからマリアに対して非難の言葉を投げたのです。そしてこのユダの言葉は、恐らくは弟子たち全員の心を代表していたのでしょう。12弟子たちは男性です。女性のマリアが自分たちに真似のできない捧げ物をした。それがゆるせない。そこで何を自分が大切にしていたか、誰を大切にしていたかが明らかになりました。ユダや弟子たちが大切にしていたのは、貧しい人でもければ、イエス・キリストでもありませんでした。それはイエス・キリストに従う自分自身でした。弟子たちは、嘘でごまかして欲望を正当化する自分を守ろうとしたのです。

 これに対してイエス・キリストは素直にマリアの捧げ物を受けました。イエスは目の前で出会う一人を大切にしました。ユダも弟子たちもいつも貧しい人と出会っていました。でも貧しい人たちを大切にしていませんでした。だから妬みの心を起こしたのです。そのような妬みの心は私たちにも問われているのではないでしょうか。誰を大切にしているかを見失わないために、私たちに神様からいただいた恵みの物語を大切にしていきたいと思います。そこからマリアのように感謝、愛、献身の歩みをなしていきたいと思います。

つまずきを超えるもの

2020年3月15日受難節第3主日

ヨハネによる福音書 第6章60-71節

牧師 木谷 誠

ヨハネによる福音書の特徴は、イエス・キリストへの言葉への戸惑いとつまずきです。例えば「新しく生まれる」という言葉を聞いたニコデモは「もう一度母のタイに戻って生まれてくるなどどうしてできるだろうか?」と戸惑いました。「また、私の来るところにあなたがたはくることができない」とイエス・キリストが言われた時には、それを聞いた者たちは、「どこに行くんだろう?自殺でもするのだろうか?」と戸惑いました。つまずきました。そのようにイエス・キリストの言葉は、いつもわかりやすいとは限りません。戸惑ったりつまづいたりすることもあります。でもそれは必ず乗り越えることができます。その戸惑いとつまずきを乗り越えるものはなんなのか?お伝えしたいと思います。

 イエスの弟子たちは「こんな話を聞いてはいられない」と戸惑い、つまずきました。どんな言葉につまづいたのでしょうか?それは6章56節、「私の肉を食べ・・」こんなこと言われたら戸惑うでしょう。なぜ、自分たちがイエス・キリストを食べるのか?わけがわからないと思うのは当然です。これに対するイエスの言葉は、それに輪をかけて、戸惑いとつまずきを大きくします。そして弟子たちの多くがイエスのもとをさってしまいました。

 そのなかで12人が残りました。ペトロが代表して語った立派な信仰告白に対して、イエスの言葉もよくわかりません。ペトロの立派な信仰告白に対して、それを褒めるのであれば意味が通ります。そうではなく、イエスは、あなたがた12人を選んだのは私である。あなたがたの信仰のゆえではないとイエスは言われました。このようにして多くの者が去りました。それは神様のご計画でした。一時的に多くのものがさり、12人が残る。そして12人とともにイエスは行動し、最後には12人も去っていく。一時的には去っていきますが、再び集められる日が来ます。またイエス・キリストが呼び戻してくださるのです。

 その戸惑いとつまずきを超えるものがあることを、イエス・キリストは告げています。63命を与えるのは“霊”である。肉は何の役にも立たない。わたしがあなたがたに話した言葉は霊であり、命である。

 命を与えるのは霊、神様の目に見えない力、働きです。聖霊です。この聖霊が命を与えます。命とは交わり、愛の交わりです。肉とは、人間的な者、神により頼まない人間の知識、能力です。これら肉によっては命は生み出されません。イエス・キリストの言葉によって聖霊が働き、命、イエス・キリストとの愛の交わりを生み出すのです。私たちは政令により頼むことを通して、つまずきを超えて、イエス・キリストとの愛の交わり、命の道を歩むことができます。この聖霊は、イエス・キリストの昇天の後、イエス・キリストに代わって天から降ります。そして弟子たちを守り導くとイエス・キリストは約束されました。イエス・キリストの言葉を生き生きと私たちの心のうちに燃え上がらせてくださる聖霊が、働く時、私たちはつまずきを超えて、歩み出していくことができるのであります。私たちも常にこの聖霊の働きを祈り求め、つまずきを超えて、イエス・キリストに従う歩みを全うできるようになっていくのです。

主と共に証しの生活

2019年3月8日受難節第2主日

ヨハネによる福音書第9章24-41節

牧師 木谷 誠

 ヨハネ福音書9章の物語の特徴は、「続きがある」ということです。イエス・キリストによって目が見えるようにしていただいた人が、その後どうなったかというところを丁寧に書き綴っています。それを読んでいるとこの人、イエス・キリストによって目が見えるようにしていただいて本当に良かったのだろうかと疑問に思えてきます。この大いなる奇跡をユダヤ人の有力者たちは受け入れようとしません。彼がそれを伝えようとすると、街道から追放されてしまいました。また親たちも彼をかばうことを致しませんでした。街道から追放されるということは、地域共同体から追放されることと、ほぼ同じ意味になります。イエス・キリストと出会って、目が見えるようになって、この人は本当に良かったのだろうかと疑問が湧いてまいります。彼は、イエス・キリストが、自分にしてくださったことを伝えずにはいられなかったのです。

 このイエス・キリストが自分にしてくださったことを伝える。これが証しです。この人の場合は、見えなかった目を見えるようにしていただいたというすごいことでしたが、そのうようなことがなければ、証しができないということではありません。それは私たちの生活の中にたくさんあります。極端に言えば、今日、生きている、生かされている。「今日私は生かされていて感謝です」。これで立派な証しになるのです。何か劇的なことを話さないと証しにならないなどと心配する必要はありません。証しとは、皆様お一人お一人に神様が、イエス・キリストがしてくださったことを「伝える」のです。「教える」のではありません。後は、神様が人々の心に働きかけてくださいます。ただ、そのような証しの生活が順風満帆に行くかというと必ずしもそうではありません。この目が見えなかった人は、目が見えるようになった喜びを伝えようとして、共同体から追放されるように、日本的な言い方で言えば「村八分」になってしまったわけであります。でもそれで終わりではありません。イエス・キリストに従う証しの生活、その中で、この目に見えない人はもう一度イエス・キリストと出会っています。証しの歩みの中で、イエス・キリストに出会う、イエス・キリストの声が聞こえてくるのです。より正確に言えば、「見える」のではなく、「見せていただく」、「聞こえる」のではなく、「聞かせていただく」のです。そのためには身支度が必要です。列王記の物語、エリシャの従者は、敵の軍勢に囲まれて、恐れおののいていました。彼には、目見える敵の軍勢しか見えませんでした。でもエリシャが従者の心の目を開いた時、エリシャと共にいる方の方がはるかに力強い、目に見えない神様のお守りが見えてきました。私たちも、身支度が必要です。神様に心の目を開いていただけるように、ひたすら祈り、御言葉に聞く中で、私たちは、神様が私たちにしてくださったこと、恵みの素晴らしさを経験することができます。そしてそれをお伝えすることが、証しの歩みです。その証しの歩みの中で、イエス・キリストが寄り添ってくださることが見えるようになります。その良き身支度を大切にしつつ、主と共に証しの生活を歩んでいきたいと思います。

イエス様を忘れないで

2019年3月1日受難節第1主日

マタイによる福音書第4章1-11節

牧師 木谷 誠

 教会の暦では先週の水曜日を「灰の水曜日」と呼び、この日より受難節(レント)となりました。受難節は復活祭(イースター)の前の日曜日を除く40日間です。この期間を通して、復活祭の祝いの準備を行います。「40」という数字は旧約聖書の中で「特別な準備期間」という意味があります。

例えば、モーセはイスラエルの民を率いて40年荒野を彷徨いました。また、モーセはシナイ山で40日間、神の言葉を待ちました。ヨナはニネヴェの人々に40日以内に改心しなければ街が滅びると預言しました。何よりもイエスは公に活動を開始する前に40日間荒野で過ごし、祈り、断食しました。

四旬節の40日間はそのような伝統に従い、

旧約聖書 ユダヤ教徒 訓練に必要な十分な時間、キリスト教徒にとってはイエスに倣うという意義もあります。

ちなみに復活祭は、春分の次の満月の次の日曜日と定められていて、受難節の始まりの日はそこから数えます。そして復活祭前の一週間は受難週となり、その週の木曜日は「洗足木曜日」として最後の晩餐を、金曜日は「受難日」として主イエスの十字架の苦難と死を憶えます。

 そのように大切な受難節の最初の日曜日、イエスが悪魔の誘惑を受けられた物語のメッセージを分かち合いたいと思います。荒野の誘惑は、悪魔の誘惑でもありました。その目的は、イエスを神から離すということです。悪の誘惑、それはとても恐ろしいものです。厳しい苦しみ、困難を乗り越えることも大変ですが、誘惑を退けることも大変です。誘惑は快いこと、私たちのプライドや欲望をくすぐります。とても魅力的です。だから主の祈りの中で「われらを試みにあわせず、悪より救い出したまえ」と祈るのです。主の祈りのこの部分、「七転び八起き」とか「艱難辛苦を乗り越えて・・」といった日本人的美徳からするといささか頼りない印象があるかもしれません。でもそういう印象を持つ人は、誘惑の恐ろしさを知らない人です。

 悪魔の誘惑はイエスの心に巧みに入り込もうとします。「お前が神の子なら」、悪魔はイエスが神の子であると知っているのです。まず悪魔はイエスのプライドをわざと傷つけて、イエスの自尊心を刺激するのです。その上で空腹になられたイエスに「石をパンに変えてみろ」と仕掛けます。ここでは人を真に養うものは何なのかが問われています。イエスは、人は、目に見えるパンではなく、目に見えない神によって養われるという信仰の本筋をしっかりと告げます。

 次に悪魔は、イエスの自尊心を刺激しつつ、神を信頼しているならば、高いところから飛び降りることができるだろうと誘惑します。これも信頼、信仰を逆手に取った巧みな誘惑です。イエスは、神を試みてはならないとして誘惑を退けます。ここでは本当に信頼できる方は誰であるかということが問われています。イエスは、本当に信頼できる方は神であり、そのゆえに試みる必要はないことを見失いません。試みるのは、信頼できないからなのです。

 最後に悪魔はこの世の富と繁栄と引き換えに自分を拝むようにと誘惑します。これが悪魔の本音でした。富の誘惑、それはとても魅力的です。ここにそれ以前の二つのやりとりが集約しています。真に神として拝むべきものは、悪魔か。真に人を養い、それとも決して裏切ることのない信頼できる神か?ここでもイエスは、神に信頼し、依り頼む信仰から離れようとはしません。この誘惑、答えは最初から明らかです。イエス以外にもこの答えを見つけることは難しいことではありませんでした。でも明らかな答えがあっても、それを勇気を持って受け入れること、その通りに生きることは決して易しいことではありません。明らかな答えを受け入れられないのが人間です。どうして受け入れられるのか、明らかな答えに自分の行き方を合わせることができるのか?この物語は、私たちにとても大切なヒントを与えてくれます。それは第一に祈りです。イエスも祈られました。祈りに祈ったからこそ、イエスはこの誘惑に打ち勝つことができたのです。そしてもう一つは聖書の言葉です。この場合の聖書の言葉とは、旧約聖書のことです。イエスはサタンの誘惑を全て申命記の言葉で退けています。イエスは、日々聖書の言葉に聞いていました。まさしく神の言葉によって養われ、生きていたのです。この祈りの御言葉こそ、悪魔の誘惑に打ち勝って信仰の歩みを全うする大切な身支度です。

 悪魔の誘惑を退けて、イエスは、公の活動を始めます。その先にすでに十字架の死が見えていたことでしょう。

 私たちも受難節の歩みを始める時、この祈りと御言葉によって、支えられながら、日々歩んでまいりましょう。

役に立ちます

2020年2月23日降誕節第8主日

申命記 第8章1-6節

ヨハネによる福音書第6章1-15節

牧師 木谷 誠

 最初にお読みいただきました出エジプト記は、エジプトで奴隷として苦しめられていたイスラエルの民を神が救い出した物語です。何もない荒野をイスラエルは旅しなければなりませんでした。水も食料もありません。どの方角に行けば良いのかもわかりません。旅に必要な知識もノウハウもありません。そんな「ないないづくし」の中での唯一つの頼みは、神の言葉、神の言葉を通しての神との交わりでした。パン、すなわち食べ物が不必要とまでは言いません。でもパンよりも大切なのは、パンを与えることができる方であることは明らかです。でもこの明らかなことを見失ってしまうのです。一時的に神に助けていただくとしばらくは覚えていますが、すぐに忘れてしまいます。旧約聖書の歴史はその繰り返しです。だからこそ絶えず確認が大切です。人はパンだけで生きるのではなく、神の口から出る言葉によって生きるという聖書の真理を覚えなければならないです。さらに「生きる」という言葉を突き詰めていきますと、「生きる」ということは「生かされる」ということへとつながっていきます。人はパンだけで「生かされる」のではなく、神の口から出る言葉によって「生かされる」と理解する方がより本質的であると思います。誰一人自力で命を得た人はいません。命、いきている現実を自分の力で得た人はいません。それは与えられたものです。だから「生きる」のではなく、「生かされる」のです。

私たちは繰り返し神の言葉に聞くことによって、神との交わりを具体的に持つことができます。そのように具体化された神との交わりの中で、私たちは「生かされる」のです。

 ヨハネによる福音書の物語、集会が終わって夕方近く、イエスはおよそ五千人の人々に食べ物を与えるにはどうしたら良いかと弟子たちに問いました。弟子たちはとてもパンを用意できません。人間の知恵と経験と力では不可能なことです。でも、ここに自分の弁当を捧げるという子どもがいました。子どもは子どもなりにその場の状況を察して自分のできる精一杯のことをしたのでしょう。そんな子どもの捧げ物、周りの大人たちにしてみれば、その気持ちは嬉しいかもしれませんが、全く役に立たない、それこそ「焼け石に水」にしか思えなかったことでしょう。でもそれは大人の考え、人間の考えです。イエス・キリストは違いました。イエス・キリストは、この子どもの捧げ物を喜び、感謝して、人々に分けました。するとそこにいたおよそ五千人の人々は全て満腹し、残ったパンは12のカゴいっぱいになったのです。子どものささやかな、しかし精一杯の心のこもった捧げ物、イエスはそれを喜んで豊かに用いてくださいました。生かしてくださいました。そこには、人間の知恵、経験、知識、計算を超える大きな恵みと喜びに満ちた豊かな神の働きの世界があることをイエスは示してくださいました。心込めた捧げものをイエスは、生かしてくださるのです。用いてくださるのです。それは立派に役に立つのです。私たちもできることを精一杯捧げていきましょう。そこに神様の豊かな働きによって生かされる世界があるのです。

世に向かって語る

2020年2月9日降誕節第7主日

ヨハネによる福音書第8章21-36節

牧師 木谷 誠

人生、わからないことが多くあります。人も同じです。私たちがある人について、知ることができるのは、一部分であって、すべてわかるものではありません。それは、その人の存在の尊さということもできます。人間という存在は、すべてわかってしまうほど安っぽいものではないということができます。

イエス・キリストという方もかなり謎めいています。時々、意味不明というか、理解不能に思えるような言葉があり、人々は戸惑います。この人々の戸惑う気持ちはとてもよくわかります。今日の箇所でも「「わたしの行く所に、あなたたちは来ることができない」などと言われたら、「自殺でもするの?」と思ってしまうのも無理はありません。他でもニコデモは「新しく生まれる」というイエスの言葉に戸惑いましした。

でも、普通の人でもすべてがわかるわけではないのです。ましてや神のひとり子イエス・キリストのことなど、私たちがわかるところはごくわずかなのは仕方のないことではないでしょうか?すぐに全部わかってしまうほど、神のひとり子の言葉と行いは安っぽいものではないのです。私たちは「わからない」ということを謙虚に受け止めて、少しずつでもわかることができるように、いつかわかる日が来ることを願いながら、イエスの言葉の深い意味を祈り求めてゆかなければならないのではないでしょうか?

23 イエスは彼らに言われた。「あなたたちは下のものに属しているが、わたしは上のものに属している。あなたたちはこの世に属しているが、わたしはこの世に属していない。

24 だから、あなたたちは自分の罪のうちに死ぬことになると、わたしは言ったのである。『わたしはある』ということを信じないならば、あなたたちは自分の罪のうちに死ぬことになる。」

このようなイエスの言葉を聞くと「あなたは一体誰なのですか?」と私だって聞きたくなります。「わたしはある」とは「私は救い主である」、「わたしはキリスト(主)である」ということを意味します。

イエスがメシア、救い主、キリストであるということはわからなかった。だから十字架に架けられたのです。今だったらイエスはメシアであり、キリストであって、その生と死は私たちに神の愛を示すため、私たちの罪を私たちに代わって償い、私たちの罪の赦しを実現し、神との愛の交わりに招くため 贖いの死であったと言えます。罪のうちに死ぬものが生かされる。「わたしはある」という方が救ってくださるのです。神との愛の交わりを経験しないで地上の生を終えることのないように、人々が罪を赦されて神との愛の交わりに生きるためにイエスは来てくださいました。

この深い恵みは、いつでも、どこでも、だれにでも通用します。すなわち「真理」です。この真理を私たちは日々覚え、噛み締めていく中で、イエス・キリストによって実現した救いの恵みを豊かに経験し恵みに満たされ、真の自由をいただくことができます。自由とは、イエス・キリストによって示された救いの恵みを一番大切なこととし、自分の常に帰る出発点とすることなのです。

神の住まうところ

2020年2月2日降誕節第6主日

列王記上 第8章27-30節

ヨハネによる福音書第2章13-25節

コリントの信徒への手紙第3章16-17節

牧師 木谷 誠

列王記上第8章には思い出があります。もう三十年以上前、秋のことでした。岩手県北の教会の献堂式に出席しました。私にとっては初めての献堂式でした。そこでこの列王記上第8章のソロモンの神殿を捧げる祈りが捧げられたのでした。ソロモンの神殿はそれはそれは豪華な建物であったと言われています。古今東西、豪華な建物は、当時の権力者の力を誇るシンボルです。しかし、ソロモンにはそのような自らを誇る傲慢な思いは全くありませんでした。自分が造った神殿など、神の栄光の前には全く似つかわしくない。ただ、神がそこにおいて、イスラエルの民と出会ってくださるように、ひたすら恵みを求めているのです。人の力で作ったものは、いかにそれが豪壮華麗な建物であったとしても、神の栄光にふさわしいものとはなりません。そこに神が来てくださるのは、ただただ神の愛と憐れみ、そして恵みによるのです。神殿はそのように神の恵みによって、神殿になるのでした。そしてそこにおいて、民は神と出会い喜びの交わりを持つことができます。そのように神殿は、神の恵みによって成り立ち神との交わる場所でした。

私が敦賀におりました頃、休暇をいただいて名古屋の教会に出かけました。途中乗り換えの駅で信徒の方とばったりお会いしました。お友達のお見舞いに東京まで行かれるとのことでした。そのお友達のことは以前から聞かされていました。深刻なご病気で私も祈りのうちに覚えている方でした。乗り換えの新幹線の中で考えました。「このまま東京に行ったらお見舞いできる。どうしよう・・・」考えた挙句、名古屋の教会に行く予定を変更して東京の大学病院にお見舞いしました。短く聖書を読み、メッセージを伝え、お祈りしました。その方はその後まもなく、召されて行かれました。これも神様のお導きだと思いました。でも、日曜日の朝の礼拝に出席できなかったことがとても辛かった私は夕礼拝に出る方法を考えました。東京からの帰りに名古屋あたりで夕礼拝を行っている教会を探しました。ようやく一つ見つけました。場所がわかりにくくとても苦労しました。その時私の頭の中にあった意識は「礼拝に出席したい」ではなく、「神様にお会いしたい」という思いでした。ようやく教会にたどり着けた時の安心感、忘れられません。礼拝において、神様にお会いできる喜びの尊さを感じました。

二番目にお読みいただきましたヨハネによる福音書で、イエスは激しく憤っています。その様子に驚かれる方も多いことでしょう。なぜイエスはそれほど憤ったのでしょうか?先に述べましたように神殿は本来神と民との交わりの場所です。しかし、その神殿の本来の意味が忘れられて、神殿がお金の取引の場となっている。イエスはそのことに強い憤りを覚えたのでした。そして神殿の本来の意味を取り戻そうとしたのでした。

そしてコリントの信徒の手紙においては、私たち一人一人が「神殿」となると書かれています。神様が、私たちのうちに聖霊を注いでくださることによって、私たちのうちに神様が共にいてくださるというのです。ただ、私たちのうちに神が住まわってくださるには、常に聖書を読み、祈り、礼拝を捧げる中で確かめなければ、忘れてしまいます。

この聖霊の働きによって、私たちは一人一人が「生ける神殿」として生き生きと歩んでいきましょう。

旅を導く神の真実

2020年1月26日降誕節第5主日

出エジプト記 第33章12‐23節

ヨハネによる福音書 第2章1-11節

牧師 木谷 誠

休暇をいただき、ありがとうございました。

最初にお読みいただきましたのは、出エジプト記です。エジプトの地で奴隷として苦しめられていたイスラエルを神が救い出された物語です。エジプトを脱出し、奴隷の苦しみから解放されて、そこで終わりではありませんでした。そこから荒れ野の旅が始まりました。何もない荒れ野を旅する中では、「こんなことならエジプトで奴隷だったほうがよかった」というイスラエルの不満も聞かれるほどの苦難の旅路でした。そのような苦難の旅路の支えは何だったのでしょうか?豊富な食料、物資でしょうか?旅路を乗り切る経験、知識でしょうか?違います。彼らの旅路を支えたのは、彼らを導く神がおられるということ、彼らをエジプトから脱出させてくださった神は、その約束を最後まで守ってくださるという神の真実でした。

次にお読みいただいたのはヨハネによる福音書第2章、カナの婚礼の物語です。この物語は、ヨハネ福音書において、イエスが最初に行われた奇跡物語です。宴の途中でぶどう酒がなくなるという困った事態の中で、イエスの母マリアはイエスに訴えました。これに対するイエスの答えは、いかにも素っ気なくて母親に対して語る言葉とは思えません。イエスが母親を粗末にしていたのではありません。他の福音書を見ましても、救い主としての本格的な活動に入ってからイエスはあえて家族と距離を置いているように思えます。もっと重要なことは、「私の時はまだ来ていません」という言葉です。人が望む時とイエスが良しとされる時とは必ずしも一致しません。私たちはそのようなときにどうしたら良いのでしょうか?マリアの態度がとても大切です。マリアは、イエスの答えを聞いても、決して諦めることはありませんでした。だからといってイエスを強いることもしませんでした。イエスは決して悪いようにはしない。最も良い時に最も良いことをしてくれる。信頼は揺るぎません。それが自分の望むタイミングではなかったのであれば、一旦自分の願いは保留して、イエスの定めた時を待つ。ここには信仰の大切な事柄が示されています。自分の願う時が叶えられない時、信頼を失わずに神の時を待つ。とても大切です。

そしてその信仰の大切さは先の出エジプト記にもつながります。モーセは旅の中でたくさんの苦難に出会いました。悩み事は絶えませんでした。その度に祈りました。でもその祈りがすぐに叶えられたわけではありません。神は祈りを聞いてくださいます。でも神は最も良い時を用意されます。それがモーセの時と必ずしも同じではありません。でもモーセもマリアと同じように信じて待つことができる人でした。そしてそのようなモーセやマリアの信仰を神は決して裏切ることはありませんでした。神はイスラエルに対して常に真実であり続けられました。

モーセやマリアに示された神の真実は今も確かです。私たちも人生の旅を歩んでいます。この旅の支えは、旅を導く神の真実です。この神の真実に信頼して、待つべき時には待つことを忘れず、歩んでまいりましょう。

見よ 神の小羊

2020年1月12日降誕節第3主日

イザヤ書 第42章1‐7節

ヨハネによる福音書 第1章29-34節

牧師 木谷 誠

今日の主日の主題はイエスの洗礼です。イエスは洗礼者ヨハネから洗礼を受けました。このヨハネの洗礼は、私たちが受けた洗礼とは違います。この洗礼は、悔い改めの洗礼です。罪から清めるという意味では、「水の洗礼」と呼ばれます。私たちが教会で受けてきた洗礼は「聖霊のバプテスマ」です。この聖霊のバプテスマは、イエスが十字架にかかり、三日目に復活され、天に帰られた後に与えられます。

ヨハネの当時の洗礼は、一般的には異教徒がユダヤ教に改宗するための儀式であり、生粋のユダヤ人が受けるものではありませんでした。それに対して、洗礼者ヨハネはユダヤ人にも洗礼を勧めました。家柄、血筋に頼らないで、神のみ前に立ち、自分自身を振り返り、自分の罪を認め、罪を悔い改め、新しい生き方を始めることを勧めました。そのしるしとして洗礼を受ける。このような洗礼者ヨハネの活動は衝撃的であり、当時の社会体制、宗教体制への挑戦でした。

この罪人が受けるべきヨハネの洗礼をイエスがなぜ受けたのでしょうか?当たり前のことですが、イエスはキリスト教徒でもキリスト教の教祖でもありません。イエスはユダヤ教徒です。キリスト教はイエスが復活した後に始まりました。

イエスは洗礼者ヨハネの活動に共感しました。それが理由の一つです。そしてイエスは自分を罪人の一人としました。それはイエスが弱さや罪を負って生きる人に寄り添って共に生きるという決断のしるしでした。罪と弱さに苦しみ、繰り返し罪を犯す。いと高き神の子イエスが、そんな愚かな人間の現実に降りて来て、それを担い、共に生きるというイエスの決断、神の決断がそこにあります。当然、そこでは罪の現実に汚れ、傷つきます。悲惨な苦しみを受けます。十字架の苦難の出来事がまさしくそうでした。それをすべて引き受けて行くという決断です。そして人間の罪がゆるされ、神との愛の交わりへと連れ戻すために、十字架においてご自分の命を捧げるという決断です。イエスが洗礼を受けた出来事の中にはそういうイエスの決断、神のご計画がありました。それは同時に、イエスの洗礼の「覚悟」ということもできます。意義というとなんだかよそ事のようにも聞こえますが、これはイエスの選び取った生き方でした。イエスは覚悟を決めたのです。「あなたと共に生きる。あなたに寄り添う。あなたのために命を捧げる。あなたに私の命をあげよう」という神の愛の決断です。「あなたを愛している。あなたが大切だ。」という神のメッセージがイエスの洗礼の出来事に込められています。

29 その翌日、ヨハネは、自分の方へイエスが来られるのを見て言った。「見よ、世の罪を取り除く神の小羊だ。

洗礼者ヨハネに対して、イエスはそのような決断と覚悟を持って出会いました。世の罪、私たちの罪を神にゆるしていただくためにご自分の命を捧げるためというイエスの役割と意義がヨハネに示されました。それは神の導きでした。

31 わたしはこの方を知らなかった。しかし、この方がイスラエルに現れるために、わたしは、水で洗礼を授けに来た。」

洗礼者ヨハネは、イエスと出会ったことによって、自分の人生の役割がわかりました。私たちも、イエス・キリストと出会うことで自分の人生の目的がわかるのです。そしてそれぞれにイエスと向かい合って、自分がどう生きていくのか示されます。それぞれの仕事はイエスとの出会いに応えるため、イエス・キリストの恵みをいただき、それに感謝し、その恵みに答えて生きるためという点から新しい意味が与えられます。

このイエスの洗礼に込められた愛のメッセージは、私たちにも向けられています。そしてこのメッセージに感謝し、自分の人生の役割に新しい意味を見出して、私たちも歩んで行きたいと思います。

主に望みを置く

2020年1月5日降誕節第2主日

イザヤ書 第40章25‐31節

ヨハネによる福音書 第1章14-18節

牧師 木谷 誠

福井におりました頃、講壇交換で素晴らしい教会で礼拝を共にしました。その教会も高齢者も多いのですが、とてもエネルギッシュで生き生きしていて、礼拝のはじめの山影を歌う時には全員が賛美歌を見ないで礼拝堂正面に向かって力強く賛美していて圧倒されました。その教会の名前は「如鷲教会」でした。「鷲の如く」、力強いカッコ良い名前です。鷲は昔はローマ帝国皇帝の紋章でした、今ではアメリカ合州国の象徴でもあります。わしは、そんな圧倒的な力の象徴ですが、聖書ではそんなに単純に力と結びついてはいません。イザヤ書は、主に望みを置く者が、新しい力を得て、鷲のように飛び立つとあります。自分の力を頼みとして、力強く飛び立つのではなく、自分の弱さ、罪深さを痛いほど思い知らされて、人間的には何も頼ることができない、何にも望みを置くことができない、そんな「ないないづくし」の弱い者が、主にのみ望みを置くことによって、新力を与えられ、再び立ち上がることができるようになるのです。如鷲教会という名前は、そのように主に望みを置く者の集いということを告白しているのだと知りました。

さて、この新しい年、私たちは何に望みを置いて歩んでいくのでしょうか?財力、体力、人脈、それもと学力?全部違います。私たちは、ただ主に望みを置いて歩んでいくのです。その時、私たちは、新しい力を与えられて、それこそ鷲のように力強く歩んでいくことができます。主に望みを置いて歩む者に主は寄り添い、守り、導き、励ましてくださいます。

そして神は、イエス・キリストの姿でこの世界に来てくださいました。イエス・キリストの誕生は、主に望みを置く者への神の約束の成就ということができます。神の言葉がイエス・キリストという一人の人の姿となって私たちの世界に来てくださいました。そしてイエス・キリストは神の言葉として、神の意志を私たちに身をもって伝えてくださいました。それゆえに主に望みを置く者は、困難な人生の旅路において、尚、倒れることなく、新しい力を与えられて、それこそ鷲のように飛び立つことができるのです。私たちだけで困難を乗り越えていくのではなく、イエス・キリストによって実現した神との愛の交わりをいただくことによって可能となるのです。

そのような神の約束の成就としてこの世界に来られたイエス・キリストは、貧しい家畜小屋に生まれました。大工の子、貧しい民衆の一人として育たれました。旧約聖書のダビデ王やソロモン王のような目に見える栄光はどこにもありません。イエス・キリストは、力と富にあふれた圧倒的な姿ではなく、貧しく低い姿でこの世界に来られました。なぜか?神は、強い人 栄光と富に満ちた人ではなく、貧しく、弱く、疲れ、打ちひしがれた人と共にいてくださる方だからです。そのために最も貧しいところへお生まれになりました。主に望みを置く歩みは、エリートの特権ではなく、信じる者全てに例外なく招かれていることを示すために、最も貧しいところにイエス・キリストはお生まれになったのです。私たちは、この恵みに感謝し、主に望みを置くものとしてこの一年を歩んで生きましょう。

広がる救い

2019年12月29日降誕節第1主日

イザヤ書 第11章1‐5節

マタイによる福音書 第2章1-12節

牧師 木谷 誠

 クリスマスはまだ終わっていません。教会の暦では12月25日から1月6日までがクリスマスでして、お正月もクリスマスの一部なのです。

イザヤ書にはエッサイ(ダビデ王の父)の子孫から救い主が生まれるという預言が関われいます。私たちはこの救い主こそ、クリスマスにそのお誕生をお祝いするイエス・キリストであると信じています。この方は大切な賜物をいただきました。それは教会の古い伝統では「聖霊の七つの賜物」と言われています。

1知恵 何が一番良いことかを知ること。 2識別 神のみ心を生活の中で知ること。

3思慮 人に助言を与える力 人の助言に聞く力。4勇気 困難を乗り越えて 正しいと信じることを成し遂げる力。5主を知る 神の恵みを経験すること。6畏れ 神を愛すること。神に親しみを持って向き合うこと。7敬う 神を敬うへりくだった心 謙遜。

この聖霊の賜物によって、イエス・キリストは救い主としての務めを果たすことができるようになりました。

ところで、皆さんは神様から何か一つ願いを叶えていただけるとしたら何を願いますか?私はソロモン王のエピソードを思い出しました。ソロモン王は神に喜ばれ、どんな願いも叶えていただける時に何を願ったのか?黄金、財宝、武力、権力、長寿?違います。彼は神から委ねられた王の務めを果たすことができるようにと知恵を願いました。

イエス・キリストは、これから救い主として歩んでいくにあたり、必要となる聖霊の賜物を求めたのでした。この聖霊の賜物は、イエス・キリストだけでなく、祈り願う者すべてに分かち与えられます。この聖霊の賜物こそ、私たちがこの世で神様に支えていく時に必要な賜物です。

 さらにこの救い主がもたらす喜びに全ての人が招かれています。マタイによる福音書の三人の博士の物語、私たちはクリスマスには必ず思い出します。でも、この博士の訪問は、かなり唐突なことでした。遠い東の国(おそらくイラク)からやって来て、いきなり「新しいユダヤ人の王はどこにお生まれになりましたか?」と聞かれたら、ヘロデ王も、人々も驚き、不安に思ったことでしょう。なぜでしょうか?それはイエス・キリストの誕生に、全ての人が招かれているという神の御心を示すためでした。救い主は、特定の民族、立派な人、富める人ばかりではなく、全ての人々、貧しい人、罪深い人、苦しめる人等々、全ての人を愛し、その救いのために救い主を遣わされました。そのことを示すために三人の博士が招かれたのです。でも、ヘロデ王にとっては、自分の立場を脅かす者の出現は大きな不安でした。そこでヘロデ王は「新しいユダヤ人」の王を取り除こうとします。その居場所を知るために、三人の博士を送り出しました。博士たちは、救い主の生まれた場所へと導かれ、救い主を礼拝することができました。苦しい旅路の労苦は報われ、大きな喜びを与えられました。そして三つの捧げ物を捧げます。それらには博士たちも知らない深い暗示がありました。黄金は救い主の栄光を、

乳香と没薬は、十字架の死と葬りを示します。救い主は、神の栄光を表すために、罪人の罪の赦しと神の子としての永遠の祝福を実現するために罪の償いとして十字架において命を捧げることがこのささげ物に示されているのでした。それによりユダヤ人以外の私たちもイエス・キリストの救いに招かれることができたのでした。この喜びから漏れている人はいません。でも世界にはとてもそうは言えない現実があります。この救いの喜びが豊かに広がっていく働きに私たちが招かれています。それを果たすことができるように先程述べました聖霊の七つの賜物が私たちにも分かち与えられます。自分の身の回りで、また世界のどこかで苦しめる人々がいることを覚えて、自分のできることをなしていくことが、求められています。そしてそれを成し遂げるために聖霊の賜物が私たちにも与えられます。

博士たちの旅のゴールは救い主と出会うことでした。そしてそれは新しい旅のスタートでもあります。それはヘロデ王ではなく、神に従う旅です。救い主がもたらす喜びを分かち合う旅、ますます豊かな喜びに溢れる旅です。過ぎ行く年に感謝し、新しい年もこの喜びを求めて歩んでまいりましょう。

向こうからやってくる救い

2019年12月22日待降節第4主日

イザヤ書 第62章10‐12節

ヨハネによる福音書 第1章1-14節

牧師 木谷 誠

 皆様、クリスマスおめでとうございます。今治教会に4回目のクリスマス、御子の御降誕をご一緒にお祝いすることができることに感謝いたします。

1996年、私が岩手県におりました時、岩手の詩人、宮沢賢治生誕百周年が盛大に祝われました。様々な企画、イベントが催され、ある時期は「セロ弾きのゴーシュ」にちなんで毎週のように世界の有名なチェリストの演奏があったりもしました。宮沢賢治の生誕100年は、岩手の人にとってはとても大きな出来事です。でも他の地域の人たちにとってはどうでしょうか?宮沢賢治を好きな人はいるでしょうが、岩手県ほどには盛り上がらないことでしょう。ではなぜ、岩手県ではこれほど盛り上がるのか?それは宮沢賢治が岩手県に対して為した貢献、そして影響が非常に大きかったからです。だから岩手県では盛大にお祝いしますが、他の地域ではピンとこない人も当然いることになります。

 クリスマスは、イエス・キリストのお誕生をお祝いするお祭りです。このクリスマスは世界のほとんどの地域で祝われます。しかも毎年必ず祝われます。これほどまでにたくさんの地域で、しかも毎年その誕生が祝われる人物は、イエス・キリストの他にいるのでしょうか?少なくとも私は知りません。なぜでしょうか?それはイエス・キリストが、私たちの世界のために為してくださった貢献、そしてその存在の影響がとてもとても大きいからです。イエス・キリストが誕生されたこと、この世界に来てくださったことによって、私たちがいただいた恩恵がとてもとても大きく、その喜びと感謝のゆえに、私たちは毎年クリスマスをお祝いします。しかもそのお祝いをする地域は全世界に及びます。それほどまでに祝われるイエス・キリストのお誕生は、そこにどのような意味があるのでしょうか?

それはイエス・キリストの誕生が私たちの喜び、私たちの人生にとても素晴らしいメグミをもたらしたからです。

イザヤは言います。「見よ、あなたの救いが進んでくる」。救いが向こうからやってくるというのです。私たちの努力によらず、救いは神の側からもたらされます。なんだか虫の良すぎる話のように思えます。でもそこには、人間的な努力によっては神の目にかなうような良い行いを成すことができないという人間の罪への非常に厳しい洞察があるのです。憐れみ深い神は、そのような人間のために、神の側から全くの恩恵として、救いをもたらしてくださいました。その救いをもたらすためにイエス・キリストが天からおいでになられたのです。それはなぜでしょうか?それは神がこの世界を愛されたからです。背き続ける人間を、尚、神は愛して、その罪をゆるし、愛の交わりへと招き入れるために神はイエス・キリストを遣わされました。その恩恵は時代を超えて、地域を超えて、全ての人に及びます。イエス・キリストの誕生には、そのような神の絶大な恵みがあります。その喜びに全ての人が招かれています。私たちも心の扉を開いて、イエス・キリストを心の中に迎え入れましょう。クリスマス、おめでとうございます。

道をととのえる

2019年12月8日待降節第2主日

マラキ書 第3章19‐24節

ヨハネによる福音書 第1章19-28節

牧師 木谷 誠

 イエス・キリストの御降誕の祝いの準備期間(アドヴェント)を過ごしています。第二週となりました。本日は、先駆者、洗礼者ヨハネからのメッセージを分かち合いたいと思います。「ヨハネ」という名前の人は新約聖書にも数名でてきます。ユダヤではよくある名前です。今回登場するヨハネはイエスの登場前に悔い改めの洗礼を宣べ伝えた「洗礼者ヨハネ」です。イエス・キリストの準備という大変大切な役割を果たした人物です。しかし、ヘロデ家の陰謀によって命を奪われてしまいました。人間的な意味では「非業の死」を遂げてしまいましたが、とても魅力的な人物です。いきなり人々に「まむしの子らよ」という厳しい呼びかけで語り始めます。自分がユダヤ人だから、先祖にはアブラハムという時代な人物がいるからなどと伝統にあぐらをかいていてはいけない。きちんと神様と向かい合って、自分の罪深さを認め、神様にお詫びして新しい歩みを始めなさい。悔い改めなさいと呼びかけた人物です。人々はこのヨハネの言葉に驚きました。そして多くの人が途方にくれました。一体どうしたら良いのか?人々が相談に来るとヨハネはきちんとその人の話を聞いてあげました。。徴税人が相談に来てもきちんと向かい合う人でした。徴税人は当時のユダヤにおいては、「罪人」の一人に数えられ、ファリサイ派の人たちは、交わりを持とうとはしませんでした。兵士も相談に来ました。当時のユダヤはローマ帝国のy植民地でしたので、ローマ軍が駐留していたのです。おそらくはユダヤ人ではなかった、すなわち異邦人であったと思います。ヨハネはそこでもきちんと向かい合ってくれました。厳しい言葉を語りながら、その一方で人々の声を真摯に受け止める人でした。そしてわかりやすくて、しかもやればできそうなことをアドヴァイスしてくれるのです。徴税人には規定以上の取り立てをしないように。とても具体的で、できそうなことです。兵士には「だまし取ったりするな、自分の給料で満足しろ」、これもとても具体的でできそうなことです。そんなアドヴァイスができる洗礼者ヨハネは本当に素晴らしい人物だと思います。

そんなヨハネは自分のことをどう理解していたか?彼は自分はメシア(救い主)ではないと言いました。彼は自分を偽りません。正直に自分自身を理科敷いています。彼は自分は「声」であると言いました。声は言葉を伝えます。声は心を伝えます。自分は大した者ではない。ただ神の心を伝える声として用いられている。その声の中身は「主の道をまっすぐにせよ」。どういうことでしょうか?それは神様に心を向けて、心を開いて、まっすぐに神様の声を聞いて、自分を振り返る。そして自分の弱さ、罪深さを認め、新しい歩みを始めること、すなわち悔い改めです。それが救い主イエス・キリストをお迎えする最も良い「身支度」なのです。その始まりは礼拝です。私たちも神様に心を向けて、悔い改めて、クリスマスに向け、イエス・キリストを心に迎えたいと思います。良い「身支度」をなしてまいりましょう。そして私たちも神様の心を伝える「声」として用いられたいものです。

自由への解放

2019年11月17日降誕前第6主日

出エジプト記 第2章1-10節

牧師 木谷 誠

 高校生の頃、洗礼を躊躇する友だちと牧師さんの会話を覚えています。友達は「僕はまだ自由でいたい。だから、まだ洗礼は受けない。」と言いました。すると牧師さんは「自由ってなんだろう?僕は自由とは、自分の出発点を持っていることだと思うよ。」と言われました。「自由」と言ってもその意味は色々ですし、真剣に考えていくととても難しい問題です。自由を「何ものにも縛られない」と定義しても、人間は生きる上で何らかの判断をしています。そこには基準があります。一番大切なこと、自分が常に帰っていくことのできる出発点を持っていれば、他の何ものにも縛られず、その出発点に照らして自分の思いと行動を律することができます。それが本当の自由である。そのために自分の出発点を持っていることの大切さを教えられました。

 そんな自分の出発点は、イスラエルにとっては出エジプトの出来事でした。出エジプトとは、エジプトで奴隷として苦しめられていたイスラエルの民を、神が救い出し、約束の地へと導き入れてくださった出来事です。この出来事によって、イスラエルは、神への信仰を持つことができました。イスラエルにとって、神とは、自分たちをエジプトから救い出し、自由を与え、約束の地へと導き入れてくださった方、そのようにしてイスラエルを助け出してくださった救いの神なのです。またこの出エジプトの出来事は、イエス・キリストによって実現する救いの出来事に基礎を与える意味でもとても大切な出来事でした。出エジプトの物語が、イエス・キリストによって実現した救いの型(モデル)となっているのです。初代教会は、この出エジプトの出来事やイザヤ書53章などを通して、イエス・キリストが救い主であることを理解しました。そのこと自体が神様からの導きなのでした。

その出エジプトの出来事を実現するために神から遣わされた人がモーセです。聖書には、生まれるはずのない子どもが生まれて、神の救いの御業の担い手となるという物語がいくつかあります。イサク、サムソン、サムエル、そして究極は処女マリアから生まれたイエス・キリストです。それは神は無から有を起こす方であり、人間の知識、経験、能力を超えて、豊かに働かれること、そのような神の働きに人間は全面的に信頼することの大切さを伝えるメッセージです。モーセは、生まれるはずのない子どもではありませんでしたが、本当なら川に投げ込まれておぼれ死んでいた子どもです。すなわち生きるはずのない子どもです。そんなモーセを、神様は、不思議な導きによって、命を救い、出エジプトという大いなる救いの御業へと用いられるのです。モーセは、その後、王女の子として育てられ、最高の教育を受け、能力の高い優れた人物へと育ちました。そして自分がイスラエルの民であることを知り、民の救いのために立ち上がろうとします。しかし、この志は物の見事に挫折します。彼は、打ちのめされ、惨めな逃亡者としてミデアンの地に逃れ、そこで羊飼いとして四十年過ごします。その年月の中で、彼は王女の子、エジプトの王子として得ていたもの全てを失いました。年老いて、体力を失い、逃亡者として暮らす中で人前で雄弁に話す力も失いました。「ないない尽くし」になってしまったモーセに神は呼びかけ、再びエジプトに行き、そこでイスラエルの民を救い出すように命じます。若く力に溢れていたモーセではなく、年老いて、力を失ったモーセを神様は用いられるのです。この神のご命令を聞いたモーセは、大きなためらいを覚えます。いまの自分にできるはずがない。そう思うのも当然でしょう。しかし、出エジプトの御業を担うに当たって大切なことは知力、体力といった人間的な能力ではなく、ただひたすら神に信頼し、信じ抜くという信仰であったのです。四十年の月日の中で、モーセは自分の無力さに打ちのめされ続けました。「自分はできない。自分は無力である。」人間的な意味ではそこでおしまいです。でも神の救いの物語は、人間の能力の限界から始まります。神はモーセと共にあって、守り、導き、若くて力に溢れていた時にできなかったイスラエルの自由への解放を実現させたのでした。

 モーセを守り導かれた神は今も生きて働いています。自分の限界に打ちのめされる時、神の御業はそこから始まることを忘れないで、神に信頼し、祈り求めるものでありたいと思います。

呼びかけに応える

2019年11月10日 降誕前第7主日

創世記12章1-9節

牧師 木谷 誠

 降誕前節はイエス・キリストの誕生に向けて、旧約の歴史を辿ります。今週はアブラハムの物語からメッセージを分かち合いたいと思います。神が創造された祝福された世界、エデンの園で幸せに暮らしていた人間は神に背いて、罪に堕ちてしまいました。しかし、神はそんな人間を見捨てることはなさいませんでした。約束を破った人間に対して、普通なら約束を守る義務はありません。しかし、神は恵み深くあられ、守り導かれました。恵みとは「与えるに値する価値のないものに、無償で与えること」ということができます。ご自身を裏切り、守り導く価値のない人間を、尚、神は愛して守り導かれる。これが神の恵みです。楽園から追放された後も、人間は罪を犯し続けました。カインの末裔は力による争いを続け、地上に悪が満ち、神は洪水によって、ノアとその家族、一部の動物たちを除く、全ての生き物を滅ぼされました。それでも懲りない人間は今度はバベルの塔を築いて、神を脅かそうとし、全地に散らされてしまいました。しかし、神は、繰り返し過ちを犯す人間を見捨てず、見守り、恵み深くあり続けられたのです。そのような神の忍耐強い愛の働きかけの中でアブラハムの物語が始まります。

ところで、学生の頃、先輩の下宿に遊びに行きました。先輩が「旧約聖書を一言で言うと何だと思う」と問われました。私にわかるはずもありません。先輩は、創世記第22章1節を引用して、「ここに旧約聖書の全てがある」と言われました。そこは神にアブラハムが呼びかけ、アブラハムが神の呼びかけに応えるというところでした。先輩は旧約聖書の神は、「呼びかける神」であると教えてくださったのでした。旧約聖書は、人に呼びかける神と、神の呼びかけに応える人の物語であると言えます。人が神に呼びかけるよりも先に神の呼びかけがあります。この順序は逆にはなりません。神の呼びかけは私たちの応答に先んじているのです。天地創造から進んでいく歴史の中で、神は罪に堕ちた人間を赦して、呼びかけるのです。そして神はアブラハムに呼びかけられました。その呼びかけは驚くべきものでした。75歳の老人に住み馴れた土地を離れて、新しい旅を始めよと言うのです。時として神の呼びかけは人間の知恵と経験を超えています。非常識、不条理すら感じます。神の呼びかけは愛の呼びかけなのですけれど、その時は分からないこともあります。75歳、普通ならご隠居、出番は終わりです。でも、それは人間の常識です。神様のご計画の中でアブラハムの出番は終わっていません。これから始まります。神様の御業に年齢は関係ないのです。しかし、今日の聖書は高齢者の旅立ちの物語を告げています。この呼びかけに応えるかどうかは、呼びかける方をどれだけ信頼できるかにかかっています。アブラハムは神を信頼しました。そして新しい旅へと一歩を踏み出しました。

今の時代も神は変わらず呼びかけてくださっています。私たちもアブラハムの信仰に習い(倣い)ましょう。とても無理と思いたくなります。でも、どんな小さいことでも良いから一つ始めてみましょう。そこから神様に従う新しい旅が始まります。その旅路に神様は共にいてくださるのです。

自由への開放

2019年11月10日降誕前第6主日

出エジプト記 第2章1-10節

牧師 木谷 誠

高校生の頃、洗礼を躊躇する友だちと牧師さんの会話を覚えています。友達は「僕はまだ自由でいたい。だから、まだ洗礼は受けない。と言いました。すると牧師さんは「自由ってなんだろう?僕は自由とは、自分の出発点を持っていることだと思うよ。」と言われました。「自由」といってもその意味は色々ですし、真剣に考えていくととても難しい問題です。自由を「何ものにも縛られない」と定義しても、人間は生きる上で何らかの判断をしています。そこには基準があります。一番大切なこと、自分が常に帰っていくことのできる出発点を持っていれば、他の何ものにも縛られず、その出発点に照らして自分の思いと行動を律することができます。それが本当の自由である。そのために自分の出発点を持っていることの大切さを教えられました。

 そんな自分の出発点は、イスラエルにとっては出エジプトの出来事でした。出エジプトとは、エジプトで奴隷として苦しめられていたイスラエルの民を、神が救い出し、約束の地へと導き入れてくださった出来事です。この出来事によって、イスラエルは、神への信仰を持つことができました。イスラエルにとって、神とは、自分たちをエジプトから救い出し、自由を与え、約束の地へと導き入れてくださったかた、そのようにしてイスラエルを助け出してくださった救いの神なのです。またこの出エジプトの出来事は、イエス・キリストによって実現する救いの出来事に基礎を与える意味でもとても大切な出来事でした。出エジプトの物語が、イエス・キリストによって実現した救いの型(モデル)となっているのです。初代教会は、この出エジプトの出来事やイザヤ書53章などを通して、イエス・キリストが救い主であることを理解しました。そのこと自体が神様からの導きなのでした。

その出エジプトの出来事を実現するために神から遣わされた人がモーセです。聖書には、生まれるはずのない子どもが生まれて、神の救いの御業のに炊いてとなるという物語がいくつかあります。イサク、サムソン、サムエル、そして究極は処女マリアから生まれたイエス・キリストです。それは神は無から有を起こす型であり、人間の知識、経験、能力を超えて、豊かに働かれること、そのような神の働きに人間は全面的に信頼することの大切さを伝えるメッセージです。モーセは、生まれるはずのない子どもではありませんでしたが、本当なら川に投げ込まれておぼれ死んでいたこどもです。すなわち生きるはずのない子どもです。そんなモーセを、神様は、不思議な導きによって、命を救い、出エジプトという大いなる救いの御業へと用いられるのです。モーセは、その後、王女の子として育てられ、最高の教育を受け、能力の高い優れた人物へと育ちました。そして自分がイスラエルの民であることを知り、民の救いのために立ち上がろうとします。しかし、この志は物の見事に挫折します。彼は、打ちのめされ、惨めな逃亡者としてみで案の地に逃れ、そこで羊飼いとして四十年過ごします。その年月の中で、彼は王女の子、エジプトの王子として得ていたもの全てを失いました。年老いて、体力を失い、逃亡者として暮らす中で人前で雄弁に話す力も失いました。「無い無い尽くし」になってしまったモーセに神は呼びかけ、再びエジプトに行き、そこでイスラエルの民を救い出すように命じます。若く力に溢れていたモーセではなく、年老いて、力を失ったモーセを神様は用いられるのです。この神のご命令を聞いたモーセは、大きなためらいを覚えます。いまの自分にできるはずがない。そう思うのも当然でしょう。しかし、出エジプトの御業を担うに当たって大切なことは知力、体力といった人間的な能力ではなく、ただひたすら神に信頼し、信じ抜くという信仰であったのです。四十年の月日の中で、モーセは自分の無力さに打ちのめされ続けました。「自分はできない。自分は無力である。」人間的な意味ではそこでおしまいです。でも神の救いの物語は、人間の能力の限界から始まります。神はモーセと共にあって、守り、導き、若くて力に溢れていた時にできなかったイスラエルの自由への開放を実現させたのでした。

 モーセを守り導かれた神は今も生きて働いています。自分の限界に打ちのめされる時、神の御業はそこから始まることを忘れないで、神に信頼し、祈り求めるものでありたいと思います。

呼びかけに応える

2019年11月10日 降誕前第7主日

創世記12章1-9節

牧師 木谷 誠

 降誕前節はイエス・キリストの誕生に向けて、旧約の歴史を辿ります。今週はアブラハムの物語からメッセージを分かち合いたいと思います。神が創造された祝福された世界、エデンの園で幸せに暮らしていた人間は神に背いて、罪に堕ちてしまいました。しかし、神はそんな人間を見捨てることはなさいませんでした。約束を破った人間に対して、普通なら約束を守る義務はありません。しかし、神は恵み深くあられ、守り導かれました。恵みとは「与えるに値する価値のないものに、無償で与えること」ということができます。ご自身を裏切り、守り導く価値のない人間を、尚、神は愛して守り導かれる。これが神の恵みです。楽園から追放された後も、人間は罪を犯し続けました。カインの末裔は力による争いを続け、地上に悪が満ち、神は洪水によって、ノアとその家族、一部の動物たちを除く、全ての生き物を滅ぼされました。それでも懲りない人間は今度はバベルの塔を築いて、神を脅かそうとし、全地に散らされてしまいました。しかし、神は、繰り返し過ちを犯す人間を見捨てず、見守り、恵み深くあり続けられたのです。そのような神の忍耐強い愛の働きかけの中でアブラハムの物語が始まります。

ところで、学生の頃、先輩の下宿に遊びに行きました。先輩が「旧約聖書を一言で言うと何だと思う」と問われました。私にわかるはずもありません。先輩は、創世記第22章1節を引用して、「ここに旧約聖書の全てがある」と言われました。そこは神にアブラハムが呼びかけ、アブラハムが神の呼びかけに応えるというところでした。先輩は旧約聖書の神は、「呼びかける神」であると教えてくださったのでした。旧約聖書は、人に呼びかける神と、神の呼びかけに応える人の物語であると言えます。人が神に呼びかけるよりも先に神の呼びかけがあります。この順序は逆にはなりません。神の呼びかけは私たちの応答に先んじているのです。天地創造から進んでいく歴史の中で、神は罪に堕ちた人間を赦して、呼びかけるのです。そして神はアブラハムに呼びかけられました。その呼びかけは驚くべきものでした。75歳の老人に住み馴れた土地を離れて、新しい旅を始めよと言うのです。時として神の呼びかけは人間の知恵と経験を超えています。非常識、不条理すら感じます。神の呼びかけは愛の呼びかけなのですけれど、その時は分からないこともあります。75歳、普通ならご隠居、出番は終わりです。でも、それは人間の常識です。神様のご計画の中でアブラハムの出番は終わっていません。これから始まります。神様の御業に年齢は関係ないのです。しかし、今日の聖書は高齢者の旅立ちの物語を告げています。この呼びかけに応えるかどうかは、呼びかける方をどれだけ信頼できるかにかかっています。アブラハムは神を信頼しました。そして新しい旅へと一歩を踏み出しました。

今の時代も神は変わらず呼びかけてくださっています。私たちもアブラハムの信仰に習い(倣い)ましょう。とても無理と思いたくなります。でも、どんな小さいことでも良いから一つ始めてみましょう。そこから神様に従う新しい旅が始まります。その旅路に神様は共にいてくださるのです。

「罪とは何?」 

牧師 木谷 誠

2019年11月3日降誕前第8主日

創世記 第3章1-15節

先週より教会の暦は降誕前節となりました。教会の暦は、なんのためにあるか?それは神様の救いの御業を日々の生活の中で確かめるためにあります。具体的には毎週の礼拝で朗読される聖書箇所がそれを表現しています。降誕前節からの流れは、天地創造(10/27)、堕落(11/3)、アブラハム(11/10)、モーセ(11/14)、ダビデ(11/24)となります。そこから降誕前節から待降節に入って行きます。主イエス・キリストの降誕の物語、主イエス・キリストの生涯、受難、復活、昇天、聖霊降臨と続いて行きます。教会の一年は降誕前節から始まっているということもできるのです。特に今過ごしている降誕前節は、旧約聖書から神様の救いの御業を学びたいと思います。まず、天地創造の物語、世界は神の言葉、神の意志によって世界は創造されました。その意志の中身は愛と祝福です。この世界は神の愛と祝福の意志によって作られた、とても良いものであり、人間は神に似せて作られた神の似姿です。そして世界は神からの愛と祝福の贈り物であり、人間は神の恵みをいただき、神との愛の交わりのうちに生き、感謝と賛美をこの世界で表現するのです。世界は神への愛と感謝を伝える喜ばしいステージ(舞台)なのです。これが天地創造のメッセージです。

これを受け、今週は、「堕落」が主題となっています。とてもとても残念なことに、人間はこの天地創造の祝福、神との愛の交わりを失ってしまいました。

この祝福された世界、エデンの園において、人は神との愛の交わりを与えられて幸せに生きていました。神はこの愛の交わりを維持するために一つの約束を与えました。それは園のどの木から取っても良いけれど、「善悪を知る木」だけは食べてはいけないというものでした。十分な食べ物(木の実)がありました。どれも美味しくて何も不自由はありませんでした。この約束は、神様の意志に人が従うかどうかを試すためだけのものでした。ところが、人は神のとの約束を破ってしまいました。交わりは約束によって維持されます。約束を破ると交わりも敗れてしまいます。この瞬間、その時に神と人との愛の交わり、愛の関係が壊れてしまったのです。罪を犯す前、人は無垢の状態、罪を知らない状態でした。裸でも恥ずかしくありませんでした。自分のありのままを神に委ねていました。ところが神に背き、神との愛の交わりを失ってしまうと、神が恐ろしくなりました。約束を破ったからです。神の前に自分のありのままを正直に委ねることができなくなりました。そして人は神から身を隠します。さらに人は、自分の罪を他に責任転嫁します。自分の罪を認めない頑なさ、あっという間に人は罪の虜になって神から離れてしまいました。これが原罪です。

私たちは、一般に罪といえば、法に触れる罪をいいます。聖書においては、それらも罪ですけれど、その大本に神に背く罪、「原罪」が存在することを教えています。神に背く人間の誤ったあり方からいろいろな罪が現れてくるのです。そのような悲しい罪の物語が創世記第三章です。しかし、ここに希望が記されています。「お前と女、お前の子孫と女の子孫の間に/わたしは敵意を置く。彼はお前の頭を砕き/お前は彼のかかとを砕く。」 創世記3章15節

「女の子孫」、これはとても不思議なことばです。普通「男の子孫」といいます。この女の子孫とは男によらずに生まれる子ども?いったいだれでしょうか?これは処女マリアから生まれたイエス・キリストの預言であると、そしてこの子は、蛇(サタン)によってかかとを砕かれる。これが十字架を指しています。しかし、この子はそれ(十字架の死)と引き換えに蛇すなわちサタンの頭を砕くことによって罪と死を滅ぼし、私たちを罪から解放してくださる。そのような意味でこの言葉は原始福音と呼ばれています。罪の問題は私たちにとってとても深刻な問題です。自分が神から離れていないか、神を忘れていないかを常に吟味し、罪からの解放をもたらしてくださったイエス・キリストを常に仰ぎ見て歩んでまいりましょう。

恵みに応えて生きる

2019年10月13日

聖霊降臨節第19主日

アモス書 第6章1-7節

   ヤコブの手紙 第2章1-9節

牧師 木谷 誠

 先週に続いてアモス書が与えられました。預言者アモスは紀元前8世紀に活躍した預言者です。彼の預言者としての原点は、出エジプトの恵みの出来事でした。エジプトで奴隷として苦しめられていたイスラエルの叫びを神は聞かれ、イスラエルを救い出してくださった。神は弱い者、貧しいものの神であるということです。時代は流れ、イスラエルは奴隷から解放され、自分たちの土地を持ち、国を築くことができました。国は安定し、豊かになりました。その中で、貧富の差が生まれ、様々な差別、不正が行われるようになりました。この状況を神は決して見過ごされません。そのような立場に立って、アモスの批判は当時のイスラエルの不信仰の問題に集中しています。国の有力者たちが神様の御心から離れ、親のいない子ども、夫を失った女性、寄留の他国人といった社会的に弱い立場の人を虐げ、搾取して私腹を肥やしている状況を批判しています。そのようにして蓄えた富で、どんなに豪華な捧げ物をなしても、神様はお喜びにはならないこと、むしろ、不正と搾取をやめ、弱い立場の人たちの権利を守り、保護することこそが神様のお喜びになる真の礼拝であると主張するのです。心で神様を信じていても、生活の中で、弱い立場の人を差別し、虐げていては、その信仰は本物ではないとアモスは批判します。これはアモスに限らず、イザヤ、エレミヤなど多くの預言者の基本精神でした。聖書は心のあり方と実際の生活との結びつきをとても大切しているのです。社会の不正や差別、暴力の問題は、信仰の問題と結びついているのです。信仰は心の中だけの事柄ではありません。わたしたち生活の中で全ての言葉と行いと思いが、神様のみ心に照らして問われているのです。

ヤコブの手紙はそのような預言者の精神を受け継いでいます。「信仰によって義とされる」という教えを強調したパウロを誤解する人たちがいました。イエス・キリストを信じていれば、生活の中で不正や差別をしても構わない。大切なのは心なのだから、信仰なのだからという誤解です。ヤコブはこのような状況に対して、この手紙を書いたのです。信仰さえあれば、何もしなくても良い。目の前に苦しんでいる人がいて、何もしなくても良いのか?そんな信仰がありますか?それは正しい信仰と言えますか?とヤコブは問いかけます。

信仰は行いを生み出すのです。イエス・キリストは「木はその実によって知られる。」と言われました。信仰が「木」だとするならば、日々の行いは「実」です。神様に喜ばれる生活、行いという「実」を生み出さないならば、「木」としての信仰に問題がある。そう考えるべきなのです。様々な差別や不正を行ってはならない。放置してはならない。今も様々な差別や不正が存在します。それらを放置することは、神のみ心に適わないことです。今日の私たちも、ヤコブから、アモスからそのようにして問いかけられています。普段の生活の中で、この問いかけに応えていきたいと思います。

神の御心に仕える

2019年10月6日 聖霊降臨節第18主日

アモス書 第8章4-7節

   ルカによる福音書 第16章1-13節

牧師 木谷 誠

 アモス書において、預言者はどういう立場でものを言っているのでしょうか?一つは神の言葉を預かる者として、神様の立場からと言うことができます。そして神様はどこを見ておられるか?神様は虐げられて苦しんでいる人を見ています。神様は負債で苦しむ人のことを忘れてはおられないのです。そして弱い立場の人を虐げ、私腹を肥やす人の悪事を決して見逃されません。

アモス書を踏まえて、ルカによる福音書16章の例えを読むと今までとは少し違った見方ができるように思います。イエスはこの例えをどのような立場から語っておられるか、もちろん神様の立場から語っているわけですが、それと同時にイエスは負債に苦しむ人々の立場を大切にしてこの例えを語られたのではないかと思います。そして人々を虐げて、無理な負債を負わせ、不正に富を蓄える人たちのことも見ていると思います。

この管理人は、主人から預かったお金を無駄遣いしたことが発覚し、追い込まれた時に彼のとった行動は興味深いものがあります。無駄遣いをごまかそうとしたら、貸し付けていたお金の金額を増やせば良いわけです。そうすれば無駄遣いのお金を減らすことができます。そのような不正経理の事件はよく耳にします。しかし、彼はそのような方法をとりませんでした。むしろその逆で、貸し付けを減らしたのです。なぜでしょうか?管理人は、追い込まれて、自分も解雇されて、多額の負債を負わなければならない中で、初めて負債で苦しんでいる人たちの立場がわかったのではないでしょうか。そしてその負債を減らしたのです。普通に考えればこれも不正経理です。さらに不思議なことに、この管理人の主人がこのやり方を褒めたと言うのです。なぜでしょうか?イエスはここで、神の国の例えを語っています。この主人が神の例えだとすると、これは納得のいくことなのではないでしょうか?すなわち、この主人はとても憐れみ深い方で、負債(罪)をゆるす方だということです。現実にはとてもありえないことです。でも神の御心はそういうものではないでしょうか?神様が不正経理を奨励されるというのではありません。神様は、憐れみ深い方です。私たちが罪(負債)をゆるすことをお喜びになる方だということです。そして私たちの罪(負債)もゆるしてくださる方であるということです。この例えを現実にそのまま当てはめるのは難しい。でも神様の御心はそういうものではないでしょうか。そんな私たちの常識を超えた哀れみ深い方であるからこそ、この私たちの罪深い世界がゆるされるのです。そのためにイエス・キリストが十字架にかかって、罪を償ってくださったのです。神様からいただく罪のゆるしは、私たちには恵みとして無償で与えられています。でもそのためにイエス・キリストの十字架、イエス・キリストの命という大きな代償が捧げられたことを忘れてはなりません。神の前に自分の負債(罪)を自分で減らすことはできません。でも神様は私たちが互いにゆるしあうことをお喜びになります。そして私たち自身の罪をもゆるしてくださいます。そのように考えますとこの例えが、あの主の祈りの「我らに罪を犯すものを 我らがゆるすごとく 我らの罪をもゆるしたまえ」と深いところでつながっていることに気づかされます。

ゆるしはとても難しいことです。でも私たちが真剣にゆるし合うことが神様の御心に仕えることなのです。

父の愛

2019年9月29日

聖霊降臨節第17主日

ルカによる福音書 第15章11-32節

牧師 木谷 誠

 本日与えられました聖書は「放蕩息子のたとえ」というタイトルでよく知られています。父親の生前に、弟息子が財産を求めることは当時においてもかなり無理な要求でした。しかし、父親は忍耐強くこの要求を受け入れます。この父は、イスラエルに対して、忍耐強く愛を注いで来た神に例えられます。そして財産を受けつつ、それを放蕩で浪費し、身を持ち崩す弟息子は、神を裏切り、背き続けるイスラエルの姿です。さらに私たち自身も問われています。個人的なレベルでも、私たちは、神様の愛と忍耐でたくさんのお恵みをいただきながら、それを大切にしているでしょうか?また地球規模では、神からの尊い贈り物であるこの世界を、地球環境を大切にしているでしょうか?自分の欲望のために、環境を破壊し続けているのではないでしょうか?放蕩息子の罪の現実は、私たちの問題として受け止める必要があります。挫折して、身を持ち崩した弟は、やっと自分の罪深さに気づきます。ここでは、痛い目を見ないとわからない人間の愚かさがあります。こうなることは予想できたはずなのに、愚かなことです。それが人間の罪の現実です。でも、悔い改めに遅すぎるということはありません。神様は悔い改めを決して軽んじられません。大切に受け入れてくださるからです。この神様の憐れみのゆえに、悔い改めは意味を持つのです。そして惨めな罪の姿のまま、ありのままで弟は父の家へと帰ります。取り繕う必要はありません。

そんな惨めな弟に父は走り寄ります。そして抱きしめ、接吻し、喜びの宴を催します。ここに、罪人を赦して子どもとして受け入れる神の愛があります。神は息子を愛することをやめることがおできにならないのです。

そんな喜びの宴の賑わいの中で、兄は苦々しく下を向きます。父に真面目に仕えてきた日々は何だったのか?妬みが兄の胸に湧きあがります。妬みは、私たちの心の中にも潜んでいて、あるとき突然現れてきます。誰かに良いことが起こった時に素直に喜べないどす黒い感情、それが妬みです。そして厄介なことに妬みは心の中で愛の隣に住んでいるようです。愛する人が自分を省みてくれない。他の人を見ている。その時湧き上がってくる妬みの感情は時として人の命すら奪いかねません。怒って当然とも思います。でもその一方で、どうして弟の帰還を素直に喜べないのか?血を分けた実の弟ではないか?という疑問もあります。そこに人間の愛の限界があると言うこともできます。人間は、自分が十分に愛を受けていることを感じることができないと誰かを愛し受け入れることができないのです。これに対して、父、すなわち神の愛は限界がありません。神の愛は無限大です。不合理とすら言えます。でもこの神の無限大の不合理な愛だからこそ罪深い者が救われるのです。またそのためにイエス・キリストの十字架の死というあまりにも大きすぎる犠牲を神の側で払っていることも忘れてはなりません。

この聖書をめぐって思い出が一つあります。私の修士論文をご指導いただいた橋本滋男先生にお礼の電話をしました。「先生、ありがとうございました。先生はあたかもあの放蕩息子の父のようにご指導くださいました。」と申しましたら、先生は「あの例えは兄がいるから面白いんだよ」と言われました。今回、礼拝説教の準備をしていて、先生の言葉を思い出しました。イエスという方はここに兄を加えることによって、この物語に非常に深い意味と余韻を与えています。すごい物語の語り手であると思います。

でも、見落としてはならないのは、この兄も喜びの宴に招かれているのです。父との愛の交わりに招かれているのです。自分は十分にいただいている。愛されている。そのことに気づくための祈りとゆとりが必要です。そして、みんな、この父の愛に倣うことが求められているのです。

を担う主

2019年4月7日 受難節第5主日

哀歌第1章1‐14節

ルカによる福音書 第20章9‐19節

牧師 木谷 誠

 哀歌は、イスラエルが滅ぼされ、人々がバビロンへと連れて行かれたバビロン捕囚の悲哀を歌っています。なぜこのような亡国の悲哀を受けなければならなかったのか?それはイスラエルの罪が原因でした。

 神の恵みによって守られていたイスラエルですが、彼らは神に背き、ほかの神々に自分を任せてしまいました。神は預言者を派遣して悔い改めを求めましたが、イスラエルは従いませんでした。そこで神はイスラエルを懲らしめるために、新バビロニア王国を用いてイスラエルを滅ぼしたのでした。国が滅びる悲哀なんて想像もつきません。しかし、神はその亡国の悲哀、悲惨な罪のどん底にイスラエルを見捨て去りはしませんでした。哀歌3章19-20節には、人間の罪の悲惨のどん底にまで降りて来られる神との出会いが記されています。そのようにして苦難の現実におりてきてくださる神との出会いによって、哀歌の詩人は絶望の中に希望を見出すのでした。

 ルカによる福音書のぶどう園の農夫のたとえ話、子どもの頃、読んでとてもショックを受けたことを覚えています。ぶどう園の主人は神、農夫はイスラエルと理解することができます。主人は農夫を信頼してぶどう園を委ねました。しかし、農夫たちは主人の信頼を裏切り、主人の命令に背いて、自分たちの欲望のままにぶどう園を支配しようとしました。主人が遣わした僕は、預言者たちです。預言者たちは、主人である神の命令に従い、農夫たちが主人の信頼に応え、主人の命令に従うようになんども求めました。しかし、農夫たちは従いませんでした。イスラエルも預言者たちが伝える神の言葉に従いませんでした。ここまでならイスラエルの歴史にそのまま当てはまるのですが、ここから少し違った展開があります。一人息子の登場です。僕たちに従わない農夫たちに対して、主人は一人息子を派遣します。一人息子なら敬ってくれるだろうと期待しました。しかし、農夫たちはその一人息子を殺してしまったというのです。人間の罪、ここに極まれりという感想を持ってしまいます。ここから例え話は、方向を変えています。実は農夫たちは、当時のユダヤ人、祭司長、律法学者たちであり、一人息子はイエス・キリストであるということになってしまいました。祭司長、律法学者たちは、この例え話が自分たちへの当て付けであることに気づいて、それまでも抱いていたイエス・キリストへの憎悪、殺害の意思を強くしたのです。

この例え話は、人ごとではないと思います。神は私たち人間を信頼して、ぶどう園(この世界)を委ねました。しかし、私たち人間は神の信頼を裏切り、この世界を欲しいままに扱い、たくさんの戦争、環境破壊を繰り返しています。多くの良心的人々が警告しても従いません。ついには神の独り子さえも十字架にかけてしまう。そんな私たち人間の罪の恐ろしさがこの例え話で告発されているように思えます。本来ならば、神の信頼に応え、神のみ心に従って、この世界を正しく管理していれば、世界はもっと喜びに溢れた本来の輝きを保っていたことでしょう。

私たち人間の罪がどれほど、醜い深刻なものであるかを、私たちはこの例え話を通して自分の問題として受け取らなければなりません。そして悔い改めの機会としたいものです。ただ、哀歌と同様に、神はそのような罪の悲惨に陥った私たち人間を見捨ててはおられません。その罪の悲惨の底まで降りてきてくださり、私たちの罪を担う主、イエス・キリストを神は送ってくださいました。十字架の出来事の中に、私たちは自分たちの罪の大きさとともにそれを担ってくださる主イエス・キリストを仰ぎ見るのです。

主の栄光を映し出す者として

2019年3月31日

出エジプト記第34章29‐35節

ルカによる福音書 第9章28‐36節

牧師 木谷 誠

    年度末、卒業式などで輝いたこどもたち、若者たちの姿をニュースなどで見ることができます。とても眩しい眺めです。こちらまで嬉しくなります。人は様々な時に輝きます。人の輝きについて、聖書はどう言っているでしょうか?本日与えられました二つの聖書は人が輝いた物語という点で共通しています。出エジプト記ではモーセが、ルカによる福音書ではイエス・キリストが、それぞれ光り輝きました。この輝きは、神の栄光を反射する輝きです。モーセは神と語り合いました。イエス・キリストは、父なる神の独り子として父の栄光をもっとも反映している方です。聖書において、人は神の「光」を反射して輝きます。自分の力で輝くのではなく、神の栄光の光を反射して、反映して輝くのです。

神と語り合い、光り輝くモーセと対面したイスラエルの民は恐れた。しかし、それがモーセとわかるとイスラエルの民はモーセの語る言葉(モーセの律法)に一生懸命聴いたのでした。

ルカによる福音書のイエスが光り輝いた物語、この物語とは構造が似ています。まず人(モーセとイエス)が輝く、それを見た人(イスラエルの民と弟子)は恐れる、イスラエルの民はモーセの言葉を聴く。天から声がしてイエスに聴くようにと促される。一致するわけではありませんが、構造がよく似ています。圧倒的な神の栄光の前に人は恐れ抱きます。しかし、その栄光は人を照らし導く光となるのです。

 さらにモーセは山を降り、イスラエルの民と共に出エジプトの苦難の旅路を歩みます。イエスは、山を降り、十字架の苦難の歩みを続けます。神との交わりをいただき与えられた命の輝きが、苦難の旅路を歩む原動力となっているのです。

ところで、使徒パウロは、コリントの信徒への手紙第二第3章4-18節において、モーセとイエスの物語を引用して注目すべき解釈をしています。パウロによるとイエスの務めはモーセの務めにはるかに勝る者とされています。さらにパウロはイエス・キリストの輝きは、神のひとり子のみに許された「別格」の輝きではなく、私たちもそれに近づくことのできる「模範」であると述べています。

わたしたちは皆、顔の覆いを除かれて、鏡のように主の栄光を映し出しながら、栄光から栄光へと、主と同じ姿に造りかえられていきます。これは主の霊の働きによることです。(コリントの信徒への手紙二第3章18節)

私たちも主の栄光の光をいただいて、それおを鏡のように映し出しながら、主の栄光の姿に作り変えられていくという途方もない希望をパウロは伝えています。主と同じ姿に作り変えられる。神の似姿としての栄光に輝くことができるというのです。どうしてそんなことがあり得ましょうか?それはひとえに聖霊の働きによります。聖霊は私たちの心に神の愛を注ぎ、私たちを育て導く、神の目に見えない働きです。礼拝をささげ、御言葉に聞き、祈ること、さらにはキリストの愛に習って奉仕することを通して、心の覆いを取り去り、主の栄光の輝きの姿に作り変えられていく歩みを始めていきたいと思います。

n日本キリスト教団今治教会
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