top of page
IMG_0741.jpeg
今治教会 家庭礼拝の手引き

まざまなご事情から礼拝にいらっしゃれない方がそれぞれの家庭で礼拝を守れるようにと「家庭礼拝の手引き」を作成しています。

2023年3月26日受難節第5主日

【家庭礼拝の手引き】

日本キリスト教団 今治教会

受難節第5主日 (十字架の勝利) 

2023.3.26  開会 10:15

**********************************************************************************************************

◎できるだけ10時15分に、難しい方はご都合のつく時間に守ってください。

黙祷        

 

讃詠                   1「主イェスよ、われらに」

 

主の祈り 

 

賛美             135「あわれみをたまえ」

 

聖書               テサロニケの信徒への手紙Ⅰ 第5章12-28節(新約聖書378頁)

12兄弟たち、あなたがたにお願いします。あなたがたの間で労苦し、主に結ば

れた者として導き戒めている人々を重んじ、 13また、そのように働いてくれ

るのですから、愛をもって心から尊敬しなさい。互いに平和に過ごしなさい。

 14兄弟たち、あなたがたに勧めます。怠けている者たちを戒めなさい。気落

ちしている者たちを励ましなさい。弱い者たちを助けなさい。すべての人に対

して忍耐強く接しなさい。 15だれも、悪をもって悪に報いることのないよう

に気をつけなさい。お互いの間でも、すべての人に対しても、いつも善を行う

よう努めなさい。16いつも喜んでいなさい。17絶えず祈りなさい。18どんな

ことにも感謝しなさい。これこそ、キリスト・イエスにおいて、神があなたが

たに望んでおられることです。19“霊”の火を消してはいけません。20預言を

軽んじてはいけません。 21すべてを吟味して、良いものを大事にしなさい。

22あらゆる悪いものから遠ざかりなさい。23どうか、平和の神御自身が、あな

たがたを全く聖なる者としてくださいますように。また、あなたがたの霊も魂

も体も何一つ欠けたところのないものとして守り、わたしたちの主イエス・キ

リストの来られるとき、非のうちどころのないものとしてくださいますように。

 24あなたがたをお招きになった方は、真実で、必ずそのとおりにしてください

ます。25兄弟たち、わたしたちのためにも祈ってください。26すべての兄弟た

ちに、聖なる口づけによって挨拶をしなさい。 27この手紙をすべての兄弟た

ちに読んで聞かせるように、わたしは主によって強く命じます。28わたしたち

の主イエス・キリストの恵みが、あなたがたと共にあるように。

 

賛美             204「よろこびの日よ」

説教                         <聖書を放り投げ、また手に取る>  副牧師 𠮷川 庸介

 

聖書の中にあらゆる答えがあると、聖書をめくって答えを探し求めるときが、私たちには何度かあると思う。それは、ふとした思いつきの時も、親しい人、肉親を亡くした時、仕事がうまくいかない時、将来について不安が生じた時、様々な時が挙げられるはずだ。とはいえ、今自分が陥っている状況からどうすれば抜け出すことができるか、ぴったりの方法というものはほとんど無いものであるし、もっともらしいことを言われているような気がして腹立たしく思うこともある。迷った時に「時がある」と言われても、それはいつだと言いたくもなる。どうして自分はこんなにダメなのだろうかと思っても、「人の罪ゆえです」と言われては腹も立ちそうなものだ。深い悲しみの時に、「主は避けどころである」と言われても、その悲しみを目に見える形で一瞬で覆い隠してくれなければ、それになんの意味があるだろうかと叫びたくもなる。

本日の聖書箇所には、愛唱聖句としている方も多い「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。どんなことにも感謝しなさい」という言葉がある。これは、キリスト者としていつもどのような心持ちでいればよいかを教えてくれているように思う。また、この言葉の前には「あなたがたに勧めます」という言葉と共に、どのように生きるかを教えているように思えるような言葉が並んでいるので、教訓としての意味もあるのかと思う。しかし、この言葉がどういった状況で言われたかを考えず、なんとなしに語られてしまうことは、あってはならない。まずはこの箇所はどういった状況にあるテサロニケの人々に向けられた言葉なのかを少し見ていきたい。

この手紙が記された当時、例えばテサロニケの手紙二では、キリスト者迫害があったことを示す言葉がある。テサロニケの手紙一では迫害について書かれていないが、同じ地域、街への手紙であれば、やはり苦しい状況下に置かれていたと推測できる。今日の聖書の中で、特に核となると考えられる、「いつでも喜び、祈り、感謝せよ。このことをキリストは求めているのだ」という言葉は、そのような苦しい状況下にある人々に向かって語られた言葉であろう。つまり、何もかもがうまくいき、幸せの中にある人たちに向かっての勧めの言葉ではなく、苦しい中もがく人たちに対する励ましの意味であった、と考える方が自然なのである。ただ、その励ましはこのテサロニケの人たちには通じても、全く違う状況会にある人に通じるとは限らない。むしろ、そんなことができるものかと腹立たしく思われるかもしれない。

苦しい中にいる人たちに向かっての言葉であると理解して読むと、果たしてそのようなことができるのだろうかという思いが湧き上がる。そして、乗り越えてその通りだと受け入れるほど、自分の人間性が出来上がっていないことにも気がつく。絶えず祈りなさい、感謝しなさい。それは、確かに美しい言葉だ。諸行無常、あらゆるものは変化していくのだから、その変化さえも楽しんで過ごせればよいと思う。だが、前にできていたことができなくなったこと、今まで隣にいた人がいなくなったことを喜ぶことはなかなかできないものだ。それでもなお、この言葉を押し付けがましく言われるなら、その言葉が書かれている聖書を放り投げたくはならないか。実際のところ、わたしは聖書を放り投げてしまった。かつてわたしが経験した友人の死や、恩師とも言える方が事故で亡くなったことなどを経験した後、聖書の中にある慰めを得たいと願い読んだことがある。だが、その時の私は、欲しいと思った慰めではなく、むしろそれさえも早く受け入れよ、というように言われている気がして、深い絶望とやるせなさを抱き、聖書から遠ざかることを選んだ。

しかし、遠ざかった後に気がついたことがある。それは結局、自分にとって都合の良い答えがもらえなかったから私は苦しんでいるということだ。私たち自身が、どうしようもない困難に立ち向かわなければならなくなった時、すぐに救いが欲しいと思う。だが、それは神を自分が苦しむ時すぐに癒しを与えてくれる都合の良いものに変えようとしていることに他ならないのではないか。そんな心持ちであれば、自分の願いが叶えられればほんの一時だけ神を賛美して、また次の困難の時まで忘れてしまうようなことになるに違いない。

この手紙を書いたパウロの人生は苦難の連続であった。キリストを伝える使命を得て以降も、鞭に打たれたこと、船が沈没しかけたこと、石を投げつけられたことなどがあったことが、コリントの手紙二に書かれている。また、パウロはは肉体に一つのとげ、おそらく体の病であったと考えられますが、それを去らせてくださいと三度も主に願いつつ、「お前に私の恵みは十分である」と、取り去られることはなかった。神の使命のために自分の命を捧げながら、神から見返りと呼べるものが何もない人生である。人生を呪えと言われて呪うことかできる人がいるとしたら、パウロはその人となってもよいのではないか。だがそのパウロが「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。すべてのことについて感謝しなさい。」と語るのだ。その意味は、自分は、自分に都合の良いことをするからこの神を信じる、とは言っていないということだ。この意味の大きさに触れる必要がある。

また、この手紙の中の文章が、苦しい状況下にある人々に向かって向けられている言葉であることを伝えたが、パウロがそれを知らず、苦しい中にいる人たちに向かって無責任に語りかけていた、ということはないはずだ。そして、苦しい状況下であっても無理にでも喜び感謝しなさいということでもない。ただ、あなたたちの心の中に、神が教えている真理というものを、自分の都合の良いものに置き換えてはいけない、ということではないだろうか。私たちは当たり前であることに慣れ、当たり前に感謝しなくなる。だが、日々を与えているのが実は神であり、辛い日々であってもそのことを私たちは感謝することができるのだと伝えようとしていることではないか。

これは解決方法にはなっていないかもしれない。果たしてその通りかを誰に向かってでも言えるかも分からない。けれど、私たちが当たり前だと思う日々こそが喜び、祈り、感謝するものであること。そして、そのような日々は偶然ではなく実は与えられているものであることを思う。それは結局、聖書を通じてしか教えられはしないだろう。だから私たちは、時に聖書に教えられる言葉への反発を、そして時に苦し身を抱くこともありつつ、だが決して揺るがない心理というものを教える聖書という書物をまた手に取るのではないか。そこには一筋縄ではいかないが、確かにわたしたちへの深い慰めと励ましが、そこにあるはずだ。

 

賛美          464「ほめたたえよ」

献金   (ご都合の良い時に教会にお捧げください)

頌栄         27「み栄えあれや」

黙祷

bottom of page